詩集 言の葉のたから箱【紡ぎ詩Ⅴ】
人生は無限の可能性に満ちている
ある人はいつも不平ばかり言っている
私には○○がない 私には○○もない 私は不幸だ
だが 私から見れば その人はすべて満たされているとはいえないけれど
この広い世の中では恵まれている部類だと思う
ある日 その人はとうとう自分を追い詰めて過ぎて心の病にかかってしまった
もちろん その人とまったく同じ立場ではない自分に
その人の苦しみや哀しみがすべて判るわけでもないし
理解できているともいえないだろう
けれども 私には私なりの悩み苦しみもある
世界にはたくさんの人がいて
それぞれの人が皆 何かしらの悩みを背負っている
よほどすべてに恵まれた人でない限り
人は必ず悩み苦しみを持っている
どれほど幸せそうに見えたとしても
それは表面上のものにすぎないかもしれない
皆 他人に滅多に内面までさらけ出さないから
判らないだけ 知らないだけ
私から見れば その人は恵まれている
優しい理解ある旦那様 何不自由ない生活
やろうと思えば何だってできる
なのに 何故 否定的な面ばかりを見るのだろう
人生は幸せ探しのゲームだと思った方が良い
不幸よりも幸せの数をかぞえた方が絶対に幸せになれる
その気になれば 自分を取り巻く世界は無限の可能性に満ちている
考え方次第で「幸せ」は見つけられる
ある時期から思うようになった
幸せとは待っていて受け取るものではなく
なければ自分で作り出す もしくは見つけ出す努力をするものだと
☆「心の断捨離~何かを手放すということ~」
何かを手放すのは
何かを得ようとするよりむしろ難しいかもしれない
特に自分が拘り続けてきたものであれば
なおいっそう困難を極めるだろう
時には一歩離れてみて
自分に問いかけることも必要だ
―それは、あなたにはとって本当に必要なことですか?
むろん おおいに判断に迷うだろう
拘ってきたものなら尚更だ
けれども
いつだって物事に両面はある
その二つの面のよりどちらを自分が大切にしたいか
そこが決断すべきポイントだ
少しでも自分にとって〝大切〟さのウエイトが大きい面を考慮して
最終的な決断を下す
西瓜をすっぱりと半分に割るように
質問の応えが出るなら
そもそも人生に迷いなどない
迷いながら手探りで進んでゆくからこそ
人間なのであり
人生という物語を常に先へと書き進めてゆく面白さもあるのかもしれない
☆「簾越しの艶(つや)」
さわさわと木の葉をそよがせ
朝風が通り過ぎてゆく
ふと気づけば
洗面所の小窓にかかる簾越しに
庭の紫陽花がかいま見えた
六月の半ば
色を深めつつある花は鮮やかなピンクに染まっている
その傍らには珍しいガクアジサイ
手鞠のようなふっくらとした華やかな紫陽花とは違い
どこか淋しげな雰囲気をまとう
かつて我が家の庭には
普通の紫陽花しか咲いていなかったらしい
今は亡き祖母が旅行先から持ち帰ったガクアジサイを挿し木したとたん
あっという間にガクアジサイが増えたと母が語った
今ではもう
本来の主であるはずの紫陽花が片隅に追いやられ
ガクアジサイが我が物顔に庭を陣取っている
ガクアジサイ独特の佇まいを見慣れているせいか
私はどちらの紫陽花も好きだ
鞠のように愛らしい紫陽花が屈託ない美少女なら
清楚なガクアジサイは気品さえ漂わせた妙齢の美女だろう
どちらにもそれぞれの美しさがある
私が物心ついたときには
庭はもうガクアジサイに占拠されていた
毎年 初夏になると
洗面所から覗く紫陽花が少しずつ色づいてゆくのを見るのがひそかな愉しみになっていた
殊に 百均で買った小さな簾を窓にかけてからは
見えそうで見えない紫陽花の艶(えん)な美しさは
烈しい夕立の上がった夕刻
臈長けた女性が風呂上がりの素肌にしっとりと浴衣を纏ったかのような風情がある
あからさまではないけれど
おのずと滲み出るそこはかとなき色香
清潔な艶っぽさを感じる
簾の隙間越しに見る風景が
日々 微妙に変わりゆく梅雨入り前のある朝
爽やかな朝の風が静かに吹き込んできて
私の心まで揺らす
猛暑の真夏まであと少し
まるで嵐の前の静けさのような心もちで簾越しの紫陽花を眺める
季節がうつろおうとしている
何かが終わり新しい始まりの予感に心がざわめく
―明日この場所に立った時 花はまた少し色を深めていることだろう
☆ 「三色の蝶」
六月下旬の昼過ぎ、どんよりと鉛色の雲が空を覆っていた。末娘と週末の買い出しから自転車で戻ってきた時、眼の前をひらひらと蝶が飛んでいった。思わず視線が吸い寄せられる。それほどに美しい蝶であった。
羽根にはまるで極細の筆で丹念に描き込まれたかのような繊細な模様がついている。昆虫についての知識が乏しい私にも、揚羽蝶だと判った。蝶はしばらく忙しなく私の周囲を行きつ戻りつしていたが、やがて、飽きたかのように方向転換していった。
名残惜しい気持ちで揚羽蝶を見送り、物置に自転車をしまう。籠に山積みした買い物袋には食料品がぎっしりだ。何しろ一週間分をまとめて買うのだから、重いのも当然である。〝よっこらしょ〟と声を上げてずしんと重い買い物袋を両手に持ち、よたよたと家まで運ぶ。その最中、またしても蝶が飛んできた。先ほど見た揚羽蝶かと一瞬期待したものの、残念ながら違う蝶だった。
そこで私は眼を瞠る。失望はたちまちにして歓びに変わった。今度の蝶は全体が実に鮮やかな橙色に染まっている。揚羽蝶より更に華やかで美しい蝶だ。南国の花か果物を彷彿とさせるオレンジ色の羽根に所々黒い模様がある。オレンジ色と対照的な黒の色彩のコントラストは眩しいほどだ。
一般的な揚羽蝶くらいなら判るけれど、私はこの蝶の名前は知らない。しかし、名前などこの際、どうでも良い。奇跡とは大げさかもしれないが、立て続けに綺麗な蝶を見られるという体験はかつてないものだ。私にはまさしく、奇跡と呼んでも良い貴重なものに思えた。
オレンジ色の蝶は庭の睡蓮鉢に止まっている。生憎と今、睡蓮は咲いていないが、初夏から夏にかけての朝、この小さな鉢には黄色の見事な睡蓮が幾つも浮かぶ。蝶はしばらく鉢を満たした水面ぎりぎりのところを忙しそうに飛んでいた。少しく後、この蝶もまた気紛れにどこかへ消えていった。
滅多と見られない風景に、いつしか両手一杯の荷物の重さも忘れていた。今日はかなりツイテるんじゃないかと心が浮き浮きと弾んでくる。間近に台所のドアが見えている。あと少しだとホッとしかけたのと、視界を白いものがちらちらと掠めたのはほぼ同時だった。
あり得ないと思いながらも、期待感に振り向けば、視線の先に小さな白い蝶が二匹ひらひらと飛び交っていた。折しもピンク色に染まった紫陽花に戯れかけるように飛んでいる。白い蝶は日常的によく見るし、珍しくはない。が、咲き誇る紫陽花と二匹の蝶という水彩画にもなりそうな風景はなかなか見られない。梅雨空も吹き飛ぶ爽快な気分である。
わずかな時間、あたかも時間の流れが止まったかのような幸福なひとときだった。今日はまだ良いことが起こりそうな気がしてならず、私は足取りも軽く台所のドアを開けた。
ある人はいつも不平ばかり言っている
私には○○がない 私には○○もない 私は不幸だ
だが 私から見れば その人はすべて満たされているとはいえないけれど
この広い世の中では恵まれている部類だと思う
ある日 その人はとうとう自分を追い詰めて過ぎて心の病にかかってしまった
もちろん その人とまったく同じ立場ではない自分に
その人の苦しみや哀しみがすべて判るわけでもないし
理解できているともいえないだろう
けれども 私には私なりの悩み苦しみもある
世界にはたくさんの人がいて
それぞれの人が皆 何かしらの悩みを背負っている
よほどすべてに恵まれた人でない限り
人は必ず悩み苦しみを持っている
どれほど幸せそうに見えたとしても
それは表面上のものにすぎないかもしれない
皆 他人に滅多に内面までさらけ出さないから
判らないだけ 知らないだけ
私から見れば その人は恵まれている
優しい理解ある旦那様 何不自由ない生活
やろうと思えば何だってできる
なのに 何故 否定的な面ばかりを見るのだろう
人生は幸せ探しのゲームだと思った方が良い
不幸よりも幸せの数をかぞえた方が絶対に幸せになれる
その気になれば 自分を取り巻く世界は無限の可能性に満ちている
考え方次第で「幸せ」は見つけられる
ある時期から思うようになった
幸せとは待っていて受け取るものではなく
なければ自分で作り出す もしくは見つけ出す努力をするものだと
☆「心の断捨離~何かを手放すということ~」
何かを手放すのは
何かを得ようとするよりむしろ難しいかもしれない
特に自分が拘り続けてきたものであれば
なおいっそう困難を極めるだろう
時には一歩離れてみて
自分に問いかけることも必要だ
―それは、あなたにはとって本当に必要なことですか?
むろん おおいに判断に迷うだろう
拘ってきたものなら尚更だ
けれども
いつだって物事に両面はある
その二つの面のよりどちらを自分が大切にしたいか
そこが決断すべきポイントだ
少しでも自分にとって〝大切〟さのウエイトが大きい面を考慮して
最終的な決断を下す
西瓜をすっぱりと半分に割るように
質問の応えが出るなら
そもそも人生に迷いなどない
迷いながら手探りで進んでゆくからこそ
人間なのであり
人生という物語を常に先へと書き進めてゆく面白さもあるのかもしれない
☆「簾越しの艶(つや)」
さわさわと木の葉をそよがせ
朝風が通り過ぎてゆく
ふと気づけば
洗面所の小窓にかかる簾越しに
庭の紫陽花がかいま見えた
六月の半ば
色を深めつつある花は鮮やかなピンクに染まっている
その傍らには珍しいガクアジサイ
手鞠のようなふっくらとした華やかな紫陽花とは違い
どこか淋しげな雰囲気をまとう
かつて我が家の庭には
普通の紫陽花しか咲いていなかったらしい
今は亡き祖母が旅行先から持ち帰ったガクアジサイを挿し木したとたん
あっという間にガクアジサイが増えたと母が語った
今ではもう
本来の主であるはずの紫陽花が片隅に追いやられ
ガクアジサイが我が物顔に庭を陣取っている
ガクアジサイ独特の佇まいを見慣れているせいか
私はどちらの紫陽花も好きだ
鞠のように愛らしい紫陽花が屈託ない美少女なら
清楚なガクアジサイは気品さえ漂わせた妙齢の美女だろう
どちらにもそれぞれの美しさがある
私が物心ついたときには
庭はもうガクアジサイに占拠されていた
毎年 初夏になると
洗面所から覗く紫陽花が少しずつ色づいてゆくのを見るのがひそかな愉しみになっていた
殊に 百均で買った小さな簾を窓にかけてからは
見えそうで見えない紫陽花の艶(えん)な美しさは
烈しい夕立の上がった夕刻
臈長けた女性が風呂上がりの素肌にしっとりと浴衣を纏ったかのような風情がある
あからさまではないけれど
おのずと滲み出るそこはかとなき色香
清潔な艶っぽさを感じる
簾の隙間越しに見る風景が
日々 微妙に変わりゆく梅雨入り前のある朝
爽やかな朝の風が静かに吹き込んできて
私の心まで揺らす
猛暑の真夏まであと少し
まるで嵐の前の静けさのような心もちで簾越しの紫陽花を眺める
季節がうつろおうとしている
何かが終わり新しい始まりの予感に心がざわめく
―明日この場所に立った時 花はまた少し色を深めていることだろう
☆ 「三色の蝶」
六月下旬の昼過ぎ、どんよりと鉛色の雲が空を覆っていた。末娘と週末の買い出しから自転車で戻ってきた時、眼の前をひらひらと蝶が飛んでいった。思わず視線が吸い寄せられる。それほどに美しい蝶であった。
羽根にはまるで極細の筆で丹念に描き込まれたかのような繊細な模様がついている。昆虫についての知識が乏しい私にも、揚羽蝶だと判った。蝶はしばらく忙しなく私の周囲を行きつ戻りつしていたが、やがて、飽きたかのように方向転換していった。
名残惜しい気持ちで揚羽蝶を見送り、物置に自転車をしまう。籠に山積みした買い物袋には食料品がぎっしりだ。何しろ一週間分をまとめて買うのだから、重いのも当然である。〝よっこらしょ〟と声を上げてずしんと重い買い物袋を両手に持ち、よたよたと家まで運ぶ。その最中、またしても蝶が飛んできた。先ほど見た揚羽蝶かと一瞬期待したものの、残念ながら違う蝶だった。
そこで私は眼を瞠る。失望はたちまちにして歓びに変わった。今度の蝶は全体が実に鮮やかな橙色に染まっている。揚羽蝶より更に華やかで美しい蝶だ。南国の花か果物を彷彿とさせるオレンジ色の羽根に所々黒い模様がある。オレンジ色と対照的な黒の色彩のコントラストは眩しいほどだ。
一般的な揚羽蝶くらいなら判るけれど、私はこの蝶の名前は知らない。しかし、名前などこの際、どうでも良い。奇跡とは大げさかもしれないが、立て続けに綺麗な蝶を見られるという体験はかつてないものだ。私にはまさしく、奇跡と呼んでも良い貴重なものに思えた。
オレンジ色の蝶は庭の睡蓮鉢に止まっている。生憎と今、睡蓮は咲いていないが、初夏から夏にかけての朝、この小さな鉢には黄色の見事な睡蓮が幾つも浮かぶ。蝶はしばらく鉢を満たした水面ぎりぎりのところを忙しそうに飛んでいた。少しく後、この蝶もまた気紛れにどこかへ消えていった。
滅多と見られない風景に、いつしか両手一杯の荷物の重さも忘れていた。今日はかなりツイテるんじゃないかと心が浮き浮きと弾んでくる。間近に台所のドアが見えている。あと少しだとホッとしかけたのと、視界を白いものがちらちらと掠めたのはほぼ同時だった。
あり得ないと思いながらも、期待感に振り向けば、視線の先に小さな白い蝶が二匹ひらひらと飛び交っていた。折しもピンク色に染まった紫陽花に戯れかけるように飛んでいる。白い蝶は日常的によく見るし、珍しくはない。が、咲き誇る紫陽花と二匹の蝶という水彩画にもなりそうな風景はなかなか見られない。梅雨空も吹き飛ぶ爽快な気分である。
わずかな時間、あたかも時間の流れが止まったかのような幸福なひとときだった。今日はまだ良いことが起こりそうな気がしてならず、私は足取りも軽く台所のドアを開けた。
作品名:詩集 言の葉のたから箱【紡ぎ詩Ⅴ】 作家名:東 めぐみ