予定調和
映画は王道のお涙頂戴ストーリーだった。出会い、反発し、惹かれあい、困難に引き裂かれ、それでも未来に向かって進んでいく男女の話だった。原作を読んでいなくてよかった、と彼女は思った。読んでしまったらきっと自分の中で解釈した世界観との『相違点』を探してしまう。正直に言うと彼女はあまりこの映画自体に興味は持っていなかった。ただ映画館が、彼に気付かれずにその厚い唇や骨張った拳を見つめられる空間であるために映画デートを好むのであった。それがいつしか物語に引き込まれてしまい、涙なしには見られなかった。皆が大好きなよくあるオハナシだと甘く見ていた。ふと気付いて彼の方を見やると涙でぐちゃぐちゃになった私を見て笑っていた。
そっと掌が重ねられた。なんだか余計に泣きたくなってしまって、彼女はエンドロールの間もずっと鼻をすすっていたのだった。
「いつまで泣いてンの」
劇場から出ても目を真っ赤にしている彼女に彼は思わず吹き出した。しょうがないじゃん、とふくれっ面をすると余計に彼の笑いを煽る。顔を背けて鼻をかんだ。
「こんなサムい系の話好きなの? とか笑ってたのどこの誰だよ」
「うるさいなあー」
「しかも、結構序盤から泣いてなかった?」
「やだ、見てたの」
「いやズビズビうるさかったから」
可笑しそうに笑う彼をどついた。それでも笑うのをやめない彼はとても楽しそうである。不服ではあるが、そんな彼の表情を見ているのは悪くない。ぐりぐり、と頭を腕に押し付けてやった。
可愛いなあ、と声が降りかかってきたので文句を返そうとしたがさせぬ間に強く抱きすくめられた。幸い細い路地を通っていて周りに人がいなかった。首元に顔を埋められる。すう、と匂いを嗅ぐように息を吸う音が聞こえた。
「ちょっとぉ」
「好きだよ」
不意打ちのストレートな言葉。何か言い返そうとすると唇を塞がれた。私は我儘だ。キスよりももっと――強引に噛みついて噛み切って嚥下してほしい、などとこの期に及んで思ってしまうなんて。
独りよがりの妄想を振り払うように、彼の背に手を回して体温を感じた。周りには誰もいない、が沈みかけの夕陽に凝視されている。鼓動が速くなる。
「……ちょっと時間早いけど、いい?」
と、囁いた声は聞き慣れているよりも低かった。今日は元々お宅訪問のつもりだった。初めての外泊である。そういうこと、であることも理解している。
しかしいざそう言われると口の中が乾燥して水が欲しくなる。やっとのことで口を開いて「夕ご飯は……」と言うと、それくらいうちで作ってあげるよ、といつもの快活な笑い声が返ってきた。
彼の家は映画館からそう遠くない場所にあった。道を行く間は二人とも無言だった。何か話そうとして幾度か顔をあげたが、彼の横顔がやけに大人びて見えてしまって恥ずかしくなり、結局何も言えなかった。ただ手だけは終始しっかりと繋いでいた。それに対しては何故だか恥ずかしさよりも安堵感を覚えた。同時に一抹の罪悪感も。彼女の中にはいつだって、自分はおかしいのだ、彼に本当の自分を知られてはいけないのだ、という思いがある。歩くときにずっと手を握っていてくれるのは彼女の不安を和らげた。そして、自分は普通の女の子の皮を被って彼を騙しているのだという意識がちらつくのであった。
……いつからだろう、こんな異常な願望を持つようになったのは。彼に食べられる夢ばかり見るようになったのは。
古いアパートの前で二人は立ち止まった。二階の角部屋。彼が鍵を開ける。部屋に入ると彼の匂いが全身を包んだ。あ、まずい。と彼女は思った。この空気は恐ろしいほどに彼に覆い被さられたような縛り付けられたような錯覚を起こさせる。ああこのまま蹂躙されたい切り裂かれたい、綺麗にさばかれなくていい獣のように食い荒らされたい、肉を食んで血を飲み干して骨までしゃぶりついてほしい、きっとこれは、性的願望に近しいものだ。くらり、とした。電流のように妄想が頭の中を駆け巡って腰が抜けそうになる。