予定調和
時計台の鐘が午後二時を告げた。
そこは有名な待ち合わせスポットで、休日である今日は当然のごとく人で溢れかえっていた。初夏の陽気に露出した肩を気にして日傘を持ち替えている女性。小難しい顔をして腕時計に何度も目をやる紳士。腕を組んで歩き出す男女。甲高い声で大騒ぎしている女子高生の三人組。
彼女は目を閉じて時計台に寄りかかっていた。夏本番はまだこれからとはいうものの、直射日光を受けている肌はジリジリと焼けてくる気がする。ああ、いいな、心地よく暑い……熱い。このまま程よく焦げ目がついて、そこに貴方好みのハーブソルトを――。
「お待たせ」
パチン、とシャボン玉が弾けるように妄想が途切れた。彼女は目を開いて、逆光を背負う彼を睨みつけるように不機嫌な顔をした。
「何だよその顔。ごめんって。待った?」
「早いよ。もうちょっとでいいところだったのに」
それは悪かったね、と笑いながら頭をくしゃくしゃと撫でる。手を振り払って乱れた髪を整え、彼には聞こえないように「わかってないんだから」と呟いた。
そう、彼はわかってない――私の『食べられる妄想』を面白い冗談だと笑って流す彼には――このどうしようもない衝動を、理解できるはずはないのだ。
食べられたい。できるなら貴方に、貴方の手で息の根をとめてほしい。貴方に切り刻まれながら、焼かれながら、愛してると囁いて愛撫してほしい。そして私を貴方の一部にしてほしい。私は間違っているだろうか、貴方と一つになりたいこの願望を、貴方は小噺を聞くような顔をして笑うけれど。
もちろんそんな彼の反応に付き合って、「なんちゃって」と誤魔化す私も悪いのだ。仕方がない、貴方に気味悪がられてしまったら私は生きてはゆけない。
「どこ食べに行こうか」
「パスタがいい」
一言で注文をつけて彼女は『ごく普通のカップル』の顔に戻った。指を絡ませてぎゅ、と手を握る。今日のデートはウィンドウショッピングののちに映画観賞の予定である。巷で人気の純愛ムービー。原作は芥川賞受賞作家の最新作で昨年のベストセラーになった。彼はそういう『もっともな』話が好きなのだ。
彼はいくつか彼女を連れて行く店をピックアップしていたようだった。迷うことなく地図をスマホの画面上に呼び出し、手を握り返して歩きはじめる。そういうところが好きだ。そう思うほどに彼女は食べられたくなる。
カジュアルなダイニングバーだった。夜は少し灯りを落としてオトナな雰囲気になるのだろう。お手頃な日替わりランチはトマトのパスタとサラダ、そしてコーンスープのセットだった。だけど彼が注文するのはきっと、
「ハンバーグとライス」
予想が的中した彼女はほくそ笑んで、自分は日替わりのセットを頼んだ。彼は肉料理が好きなのだ。知っている。私も彼がナイフで肉を切り口に運ぶ所作を見ているのが好きだ。鉄板の上から放たれる肉を焼く音も、それに目を輝かせる彼を見るのも好きだ。ぞくり、と背筋を震わせ彼女は平静を装ってグラスのレモン水を一口飲んだ。
しばらく他愛のない話をして料理を待った。彼女とて気味の悪い自己満足の妄想でしか思考を満たせないわけではない。学生時代も現在の職場でも、まっとうな人間として振る舞っている。そして今も、どこにでもいる可愛いカノジョを演じることができている。ピンクダイヤのピンキーリングは年上の彼からの初めてのプレゼントだ。二十歳の誕生日を迎えたばかりであった。
映画の前評判について話しているところで、彼女の頼んだパスタセットが先に出てきた。
「わ。おいしそ。写真撮る」
「あー、いい匂いする。俺もそれにすればよかった」
余程お腹をすかしていたらしい。そんな物欲しそうな顔をしてこちらを見ないでほしい。彼女はお洒落に盛り付けされた料理を写真に収め、さりげなく彼のことも盗み撮りした。気付いていない。それでいい。こっそり妄想の足しにさせてもらうだけだから。
「一口あげようか」
少量のパスタをフォークに絡め取って彼の口元に差し出した。反射的に口を開く。ああずるいな、私だって彼に食べられたいのに。そう思った彼女はそのままフォークを引き上げてパスタを自分の口に放り込んでしまった。ぽかん、と彼は口を開けたままである――フォークの代わりに指を差し込みたいと思いながら彼女はその呆けた表情にくすくすと笑いだす。
彼女の倒錯した願望を知らない人が見ればただの仲良しのカップルであった。隣の席の妙齢の女性がこちらを見て微笑んでいた。彼本人もそうであった。ちょっとした可愛いイタズラにあったとだけの認識なのであろう、酷いなあと言いながら笑った。少しだけ胸が痛んだ。
そこは有名な待ち合わせスポットで、休日である今日は当然のごとく人で溢れかえっていた。初夏の陽気に露出した肩を気にして日傘を持ち替えている女性。小難しい顔をして腕時計に何度も目をやる紳士。腕を組んで歩き出す男女。甲高い声で大騒ぎしている女子高生の三人組。
彼女は目を閉じて時計台に寄りかかっていた。夏本番はまだこれからとはいうものの、直射日光を受けている肌はジリジリと焼けてくる気がする。ああ、いいな、心地よく暑い……熱い。このまま程よく焦げ目がついて、そこに貴方好みのハーブソルトを――。
「お待たせ」
パチン、とシャボン玉が弾けるように妄想が途切れた。彼女は目を開いて、逆光を背負う彼を睨みつけるように不機嫌な顔をした。
「何だよその顔。ごめんって。待った?」
「早いよ。もうちょっとでいいところだったのに」
それは悪かったね、と笑いながら頭をくしゃくしゃと撫でる。手を振り払って乱れた髪を整え、彼には聞こえないように「わかってないんだから」と呟いた。
そう、彼はわかってない――私の『食べられる妄想』を面白い冗談だと笑って流す彼には――このどうしようもない衝動を、理解できるはずはないのだ。
食べられたい。できるなら貴方に、貴方の手で息の根をとめてほしい。貴方に切り刻まれながら、焼かれながら、愛してると囁いて愛撫してほしい。そして私を貴方の一部にしてほしい。私は間違っているだろうか、貴方と一つになりたいこの願望を、貴方は小噺を聞くような顔をして笑うけれど。
もちろんそんな彼の反応に付き合って、「なんちゃって」と誤魔化す私も悪いのだ。仕方がない、貴方に気味悪がられてしまったら私は生きてはゆけない。
「どこ食べに行こうか」
「パスタがいい」
一言で注文をつけて彼女は『ごく普通のカップル』の顔に戻った。指を絡ませてぎゅ、と手を握る。今日のデートはウィンドウショッピングののちに映画観賞の予定である。巷で人気の純愛ムービー。原作は芥川賞受賞作家の最新作で昨年のベストセラーになった。彼はそういう『もっともな』話が好きなのだ。
彼はいくつか彼女を連れて行く店をピックアップしていたようだった。迷うことなく地図をスマホの画面上に呼び出し、手を握り返して歩きはじめる。そういうところが好きだ。そう思うほどに彼女は食べられたくなる。
カジュアルなダイニングバーだった。夜は少し灯りを落としてオトナな雰囲気になるのだろう。お手頃な日替わりランチはトマトのパスタとサラダ、そしてコーンスープのセットだった。だけど彼が注文するのはきっと、
「ハンバーグとライス」
予想が的中した彼女はほくそ笑んで、自分は日替わりのセットを頼んだ。彼は肉料理が好きなのだ。知っている。私も彼がナイフで肉を切り口に運ぶ所作を見ているのが好きだ。鉄板の上から放たれる肉を焼く音も、それに目を輝かせる彼を見るのも好きだ。ぞくり、と背筋を震わせ彼女は平静を装ってグラスのレモン水を一口飲んだ。
しばらく他愛のない話をして料理を待った。彼女とて気味の悪い自己満足の妄想でしか思考を満たせないわけではない。学生時代も現在の職場でも、まっとうな人間として振る舞っている。そして今も、どこにでもいる可愛いカノジョを演じることができている。ピンクダイヤのピンキーリングは年上の彼からの初めてのプレゼントだ。二十歳の誕生日を迎えたばかりであった。
映画の前評判について話しているところで、彼女の頼んだパスタセットが先に出てきた。
「わ。おいしそ。写真撮る」
「あー、いい匂いする。俺もそれにすればよかった」
余程お腹をすかしていたらしい。そんな物欲しそうな顔をしてこちらを見ないでほしい。彼女はお洒落に盛り付けされた料理を写真に収め、さりげなく彼のことも盗み撮りした。気付いていない。それでいい。こっそり妄想の足しにさせてもらうだけだから。
「一口あげようか」
少量のパスタをフォークに絡め取って彼の口元に差し出した。反射的に口を開く。ああずるいな、私だって彼に食べられたいのに。そう思った彼女はそのままフォークを引き上げてパスタを自分の口に放り込んでしまった。ぽかん、と彼は口を開けたままである――フォークの代わりに指を差し込みたいと思いながら彼女はその呆けた表情にくすくすと笑いだす。
彼女の倒錯した願望を知らない人が見ればただの仲良しのカップルであった。隣の席の妙齢の女性がこちらを見て微笑んでいた。彼本人もそうであった。ちょっとした可愛いイタズラにあったとだけの認識なのであろう、酷いなあと言いながら笑った。少しだけ胸が痛んだ。