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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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謝恩会(中編)~手からこぼれ落ちる~

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2.本当のこと



 夢なんて、悪いものばかりだと思っていた。

 薄暗く、靄のたちこめる空間を、あてもなく彷徨う毎日。
 居場所なんてない、行きたい未来もない、残された父のテープをすがるように聞いて、誰に聞かせるわけでもないピアノをこっそりと叩く日々。

 ――そこへ強烈な光がさしこんだ。目がくらむようなスポットライトと、舞台に立つギタリスト。

 自分しか知らないあの曲を弾くのは、くせ毛のギタリストと、自分と同じ血を継ぐピアニスト――けれど一度しかあったことのない姉、大野初音――



 湊人がふと目を覚ますと、そこは車内の後部座席だった。自分が乗ってきたライトバンか、と考えながら重いまぶたをこする。

 右肩にぬくもりを感じる、こんな優しいあたたかさはいつぶりだろう、こんなぬくもりがそばにあればきっと悪い夢を見ることもないだろう――

「坂井くん、目ぇ覚めたん?」

 聞き覚えのあるその声に、湊人は体を跳ね起こした。ぼやける視界をなんとかしようとあわてて目じりをこすったせいで、さすような痛みが走る。

「いったー……」

「もう何してんのよ。こすったりしたら傷の治りが悪うなるで」

 そう言って湊人の手首をつかんだのは、晴乃だった。日本人形のような涼し気な目元で、じっと湊人を見つめてくる。

 湊人はとっさに目をそらす。周囲を見渡すが、隣には晴乃しかいない。右肩にはまだ人肌のぬくもりが残っている――

「ま……き、もしかしてオレ、おまえにもたれかかってた……?」

 そう言いながら、同級生の女子にもたれかかって寝ていたという図が眼前に浮かび上がって、急激に心拍数が上がする。

「うん、お薬効いて、寝むなっちゃんちゃう? なんならもう少し寝ててもええけど」

 ホラ、といって晴乃が肩を突き出してくる。弟がいる彼女にとって、同級生の男子がもたれかかって寝るなど取るに足らないことなのだろうか、それにしても健太に見られていたら――

 そう考えると耳たぶが熱くなるやら冷汗がでるわで、湊人は「いやもういいって!」とうしろにあとずさった。

 晴乃は「私じゃ物足りん?」と軽い調子で返してくるが、その端正な面立ちでじっと見られると恥ずかしさと申し訳なさが吹き出してきて、湊人は「ごめん……」とつぶやいた。

 どうして晴乃と二人で後部座席にいるのか、現状を把握しようと窓の外を見ると、目の前に高校の正門があった。

「要たちとQUASARに向かってたはずなんだけど……」
「今から行くよ。その前に明日の打ち合わせがあるとかで、悠里とサラが多目的ホールに行ってるわ」
「そっか……牧はなんで車に残ってるんだ? 吹奏楽部は打ち合わせとかないのか?」
「坂井くんが子どもみたいな寝顔で気持ちよさそうによりかかってたから、ここにおるんやん」

 そう言いながら手を伸ばして湊人の頭をなでようとする。湊人は「やめろってば!」とその手をかわしながらも、ますます頬が紅潮するのを感じた。

 白く薄い手のひらは花びらのように舞い下りて湊人の頬にそえられる。

「昨日からなんぼ電話してもでえへんって、健ちんが心配してたで。原因は、コレ?」

 湊人は言葉を失った。心配そうに細められた瞳から目をそらすこともできない。「ひどいけがやな」そう言って、細い指が遠慮がちに傷口にふれる。

「高村さんと悠里から事情はきいたけど、ホンマのことは……やっぱり教えてくれへんの?」

 晴乃の落ち着いた声が、車内にゆっくりと広がっていく。湊人は生唾を飲み込む。怪我に至る一部始終を話そうとするたび、何から話せばいいのか脳は混乱して、全身がどす黒い靄に覆われてしまう。

 握りこぶしの中に汗がたまっていく。あの男の顔がちらつく、怒号が響く、母が殴り倒される――

「いやなことやったら思い出さんでええよ」

 気づくと固く握りしめて開かなくなったこぶしを、晴乃がそっと解きほどこうとしていた。

「坂井くんは私らのこと、めんどくさい同級生くらいにしか思ってへんかもしれんけど、私らは坂井くんのこと、友達やと思てるから。悠里もサラも心配してるし、うちも力になれたらと思てる。困ったことがあったら、いつでも言うてや」

 目を細くしてほほ笑んだ晴乃がそっと肩に手を乗せる。
 めんどくさいなんて欠片も思っていない、そうじゃなくて、言葉にならなくて――

「……なんていうか、オレの中でもまだ整理できてなくて、うまく話せないんだ……落ち着いたら、きっと話すから……」

 さみしそうな笑みをたたえる晴乃をなぐさめたくて、ついそんなことを言った。
 すると彼女はパッと顔を明るくして、湊人の眼前で小指を立てた。

「そしたら指切りげんまんや。いつか必ず、ホンマのこと教えてくれるて約束して。嘘ついたら、ホンマに針千本飲ますで」
「牧が言ったら、本当に飲まされそうで怖いな」

 その姿を想像して思わず笑い声を漏らすと、晴乃も表情を崩して笑い始めた。
 言われるがままに小指をからめて指切りの約束を交わすと「いいなあ、青春だ」と声が聞こえてきた。

 運転席に座っていたのは、なぜか要ではなく悠里の兄、陽人だった。

「あれ……運転してきたの、陽人さんですか? 要は?」

 一部始終を聞かれた恥ずかしさをごまかしながら車内を見渡すと、陽人は運転席から身を乗り出して言った。

「君が通ってた高校がどんなところかみたいからって、悠里たちについてったよ」

 湊人が思わず「あのバカ」と吐き出すと、陽人はメガネの奥の瞳をゆるませて笑った。

「俺はここで車見てるから、君らも行っといで。もう戻ってくる頃合いやろ」

 そう言って陽人が車のロックを解除したので、晴乃に押し出されるようにして湊人は外に出た。

 先日卒業したばかりの高校の正門が、曇り空の下に立っている。卒業式の頃の華々しさはどこにもなく、何の変哲もない灰色のコンクリートが校内に続いている。
 なんの感慨深さもない、ただ覚えているのは、第二音楽室でピアノを弾いたことだけ――

 早春の風に吹かれて校舎を見上げていると、竹刀を下げた男子生徒が坂道を降りてきた。短髪の精悍な面立ち、すっと伸びた背筋、きびきびと歩くその姿――

「……湊人か!」

 そう言って坂道を駆け下りてきたのは篠山健太だった。小型犬のようなすばやい動作で湊人に近寄り、額がつきそうなくらい顔をよせてくる。

「なんでおまえ電話でえへんのや! ていうかこの怪我はなんなんや!」

 肩をわしづかみにされて「痛いから離せ」というのに、まったくお構いなしに体を揺さぶってくる。

「おまえは殴り合いのケンカなんかするキャラちゃうやろ! おとなしく大人の店でピアノ弾いとけ!」

 問いかけておいてこちらの話を全く聞こうとしない気ぜわしさは相変わらずだな、とあきれていると、急に顔色が変わった。

 湊人の肩越しに視線を送っては、また顔をよせてくる。

「……なんでルノと一緒なんや」

 うしろからゆっくりと晴乃が歩いてくる。剣道場帰りの健太は制服だが、晴乃は私服のデニムパンツ姿だ。湊人ももちろん私服で、同級生なのに服装だけで妙な溝を感じる。

「なんでって……謝恩会の練習で……」