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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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謝恩会(中編)~手からこぼれ落ちる~

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 レンガ造りの階段に、ぽたりと雨粒が落ちる。雨粒は湊人の首筋に落ち、肩をつかんだままの悠里の手の甲を濡らしていく。「QUASAR」の軒先に立つ湊人は、痛む手を握られたまま動くことができなかった。



 薄暗い車内で悠里が携帯電話を操作する。車の天井には雨粒が落ちる音が幾度も響き、フロントガラスは見る間に雨水に覆いつくされる。

「これで……ええかな?」

 助手席に座った悠里が携帯の画面を見せてきた。「今どこ?」と表示された吹き出しの次に「今、車。坂井くんと話してくる」と続いている。

 「わかった」と返事をしたのは晴乃のようだった。悠里はすぐに画面を操作してホーム画面に戻してしまう。

「居場所知らせとかんと、あの二人、心配症やから」

 そう言って電源まで切ってしまった。黒くなった画面を手のひらで塞いで、息をつく。

 湊人はライトバンの運転席に座って、エンジンをかけた。春が近いとはいえ、雨が降ると足元から冷えてくる。エアコンを稼働させると、悠里の濡れた髪が風に浮いた。

「なんであんなこと言うたんか……理由を聞かせて」

 静かな車内に悠里の声が響く。湊人はハンドルに腕を乗せたまま、言葉を探す。

「なんでって……そう思ったから、言っただけだ」
「なんでそう思ったか、聞きたいの」

 悠里が助手席から身を乗り出してつめよってくるが、やはり言葉が見つからない。

 昨夜あったことを含めて、一体何から説明すればいいのか、結局そこで足踏みをしてしまう。

「ちゃんと聞くから」

 悠里は瞳に力をこめて言った。

「坂井くんに何があったんやとしても、ちゃんと最後まで聞くから」

 彼女の真摯な気持ちが、声の音色に合わせて湊人の心を揺さぶる。母と自分が激しく殴りつけられた凄惨な場面など決して彼女には見せたくないと思うのに、この現実から救い上げてほしい思う気持ちも混在して、湊人は髪をかきむしる。

「……聞いてもきっといやな気分になる」
「ええよ。それでちょっとでも坂井くんの気持ちが楽になるなら」

 そう言った悠里はほんの少しだけれど微笑んでいた。絶対に話さないと氷結させていた決意がわずかに揺らいで、湊人はうなだれる。ハンドルを握る手がすぐ目の前にある。母を守るためとはいえ、ピアノを弾く手でさんざんに人を殴りつけた事実が目の前にある。

「こうでもしなきゃ……母さんを守れなかった……」

 吐き出すようにそう言うと、殴ったときの鈍い感触が手によみがえってきた。眼前に迫りくる男の醜い顔と、骨に当たるいやな響き――

 それから思いつくままに昨夜あったことを口にした。母の住むアパートに行ったこと、そこで男が現れて殴り合いになったこと、鍵は取り戻したけれどまた母のもとに姿を見せるかもしれないこと、次会ったときに正気を保てるか自信がないこと――

 なぜ一人で暮らすことになったのか、なぜ一時期高村家に身を寄せていたのか、なぜ実の姉と暮らしたことがないのか、なぜ母と血のつながりがないのか――話すうちにどんどん過去に遡って、気づけば死んだ祖母や父の話をしていた。なぜ、なぜ、なぜこんなことになったのか、考えてもきりはなくて、今こうしてピアノを弾けること自体、現実味がないことだとも悠里には伝えた。

 湊人がひとしきり話してしまうまで、悠里はずっと黙っていた。時々入る相槌と雨音だけが、話の空白を埋めていく。

「大変やったね……そんなときにピアノ弾きに来てくれて、ありがとうね」

 悠里はゆっくりと、けれどしっかりと湊人を見ながらそう言った。予期せぬ「ありがとう」という言葉に、心が大きく揺さぶられる。

「お母さんが今どうしてはるか……心配やね」

 湊人が「うん……」と力なく答えると、悠里は突然ポンと手を叩いた。

「そうや、お母さんそこから引っ越したらどうかな。西守のおじさんやったら、きっと安全に暮らせるとこ教えてくれると思う。なんとかシェルターっていう、、暴力をふるわれた女の人をかくまってくれる家があるって聞いたことあるわ。誰か守る人がおってくれたら、坂井くんも安心してピアノ弾けるやろ? なっ名案!」

 悠里のあまりの勢いにあっけにとられていると、悠里は湊人の手を取って「善は急げって言うし、今すぐそうしよう! はよお母さんに連絡した方が安心やし……」

 手を握られたままポカンとしている湊人に気づいたのか、悠里はあわてて両手を離した。

「ごっ……ごめん坂井くんの意見も聞かんと……早とちりで……」

 悠里の白い頬がさっと赤く染まったので、湊人は思わず吹き出した。ライブハウスに携帯電話を忘れたり、音楽の教科書を取りに行ってそのこと自体を忘れてもどてきたりとそそっかしいのは知っていたが、目の当たりにするとくすぐったさがこみあげてくる。

 悠里の手から伝わってきた熱の余韻を感じながら、湊人は口を開く。

「母さんがあのアパートから離れない理由、今ならなんとなくわかるんだ。オレと父さんと母さんを結びつけるのは、今はもうあのアパートしかないから」
「……そうやんね。そんなすぐ引っ越しって言われても困るよね……」
「でもオレも……もう潮時だと思うんだ。あのアパートを離れた方がいいってことは、ずっと思ってたから。明日母さんが来たらその話をするよ。……でも」

 湊人はジーンズの尻ポケットを探った。今朝着替えたときに何となく捨てられなかった「謝恩会のお知らせ」の紙を取り出してみせる。

「結局これは渡せなかったからなあ……」

 カレーライスを盛っていた母を思い出しながらつぶやく。先に渡していたとしても、この状況で母が来たかどうかわからない。むしろこの紙を出していたらあの男が直接会場に乗りこんで来たかもしれない、そう考えると背筋が冷える思いがした。

「お母さんに連絡せんでええの……?」
「何回かかけたけど、電源切れてるみたいだった。こういうことがあったときはいつもそうだから、気にしなくていいけど」

 苦笑いすると、調子を合わせるように「そっか」と悠里も苦笑いをした。彼女にそんな風に気遣わせてしまったことに、また胸が痛む。

「他に誰か来てくれる人はおらんの?」
「いるわけないよ」
「じゃあ……来てほしかった人は、おるん?」

 聞かれて初めて、ある人物の顔が思い浮かんだ。周囲の人間は誰もが言う、自分と同じまなざしをもつあの人――

「演奏を聴いてほしかった人は、いるかな」
「坂井くんの大事な人?」
「うんそう……この世の誰よりも尊敬してる人……」

 父が残したその曲を弾ける彼女は、今海の向こうでピアノの修行に励んでいる。ちっぽけなことで悩んでいる自分の演奏のために、わざわざ呼んだりはできない。

「坂井くんはその人のこと……好きなん?」
「そりゃまあそうだけど……ていうか血のつながった人だし……って、おまえ、なんか勘違いしてない?」
「あーお姉さん! えーとたしかボストンに音楽留学してる……」
「そうだよ、初音さん。要と付き合ってる」

 湊人が目をぱちくりさせながらそう言うと、悠里は顔の前でブンブンと手を振った。