マグカップリン
予熱の済んだオーブンにマグカップが投入された。
と、思ったら、姉がヤカンでオーブンの中に湯を注いだ。
「な、何やってんだよ!? オーブンが爆発するぞ」
「邪魔しないで!」
止めようとした俺を姉は払いのけ、勢いよくオーブンのドアを閉めた。慣れない手つきで時間設定をし、スタートボタンを押す。
オーブンが動き始めたことで安堵のため息をついた姉は、爆発に備えて台所の端に退避していた俺を鼻で笑った。レシピ本を付きつけ勝ち誇ったように、ない胸を張る。
「今のは『湯せん焼き』。いい? 卵は65℃から固まり始め、75℃から80℃で完全に固まる。プリンには牛乳や砂糖といった不純物が入っているから、もう少し高温にならないと固まらないけどね。ともかく必要以上に高温にすると、すでに固まっている部分の水分が気化してスカスカになる。だから湯を入れて蒸し焼きにするわけ」
むかつく態度だが、まぁ、姉の言い分が正しいのは分かった。
けど、『牛乳や砂糖といった不純物』と言ったな? 食い物を不純物扱いするのは如何なもんだろうか。しかも彼氏へのプレゼントだろ?
「おい、使い終わった鍋、どうすんだよ?」
流しには薄黄色い液体を作った鍋が放置されていた。しかし、姉はオーブンの前に鎮座したまま。真剣に中の様子を伺っている。
今まで菓子なんて作ったことがないくせに、無理して頑張っているのは確かなんだよな。
手の甲が火傷で赤くなっている姉を見ながら、俺は黙って鍋を洗い始めた。
そしてついに、完成のブザーが鳴った。
緊張した面持ちで姉がオーブンを開ける。
俺も横から覗き込むと、投入前と変わり映えしない姿のマグカップが行儀よく並んでいるのが見えた。
「固まってないじゃん」
「そ、そんなはずないわ。本の通りに作ったのよ」
動揺する姉。
俺としてもいい加減、下働きから解放されたい。これから作り直しは勘弁だ。
その願いが通じたのか、姉の根性の賜物か。よく見ると端のほうに置かれていたものが二つだけ固まっていた。
「神様は私に必要なだけのプリンを与えてくれたのよ」
いや、おそらく母がよく言っているオーブンのムラというやつだろう。
姉は固まった二つのマグカップを大事そうに手にし……ようとして悲鳴を上げた。そりゃ、オーブンから出したばかりのものは熱いだろ。
ともかく姉はその二つを持っていくことに決めた。
さて。
問題はこれだ。
俺たちは残ったマグカップの山に目を移した。
どう見ても液体だ。断じてプリンなどではない。
「今日の晩御飯――」
姉が口を開いた。これを食えというのか?
「――ホットケーキにしよう」
「は?」
目が点になった。
「固まっていないプリンなら卵と砂糖と牛乳の混合物よね。これに粉を加えれば……」
姉は、化学者だった。
翌朝、姉がプリンと呼ぶ、マグカップに入った物質は我が家を旅立った。
夕方。
姉は素晴らしくご機嫌で、「水兵リーベー、ボクのおフネー」なんぞと鼻歌を歌いながら帰宅した。
「ねぇねぇ」
余裕の笑顔だ。なんか癪だ。思わず耳をふさいだが、姉は意にも介さずに続ける。
「あのね、やっぱりあのプリン、下のほうは固まっていなかったのよ」
「へ?」
「でもね、西山君たら、すごく濃厚でおいしいミルクシェーキだね、って喜んでくれたの。マグカップに入れたのがよかったのかな」
………………。
俺は心の中で西山氏に勇者の称号を与えた。