~そのまえの前~
「何やっとう?」
「いやあ、教科書を忘れてしまいまして……あはは」
笑ってごまかすけど恥ずかしさは隠しきれず無意識にこめかみを掻いた。
立っているのはこの部屋の主である先生だ。特に厳しい先生ではないが、何も知らない様子でのほほんと笑っている。
「ちょうどエエところに来た、倉泉」
「何ですか?」
「面白いテープがあるねんけど、聞いてみんか?」
「へっ?」
「昼休みやし、ちょっとくらいエエやろう」
「は、はあ――」
悠里は突拍子な先生の提案に笑うしかなかった。
普段の授業でも冗談が多い先生は裏表がない「他の科目は一生懸命やらなアカンけど、音楽は楽しんだらエエ」と言うのが先生の心構え。10学年上の姉もかつてこの先生を捉えて同じことを言ったくらいだから、この先生を「ユルい先生」と認識しても本人は悪く思わないだろう。
「普段勉強や部活で疲れとうやろ?昼休みはリラックスせんと、リラックス」
こちらの意見なんぞどうでもいい調子で先生はプレーヤーにテープを入れてスイッチを押した。音楽室だけに音の反響を考えた位置にあるスピーカーから感触の良いピアノの力強いイントロが始まり、そして緩やかに力を蓄えるような旋律を奏で、蓄えた力を放出するような主旋律が部屋の空気を包み込んだ。
「知ってますよ、これ『英雄』ですよね」
「正しくは『ボロネーズ』というのだがね」
先生は頷いて、悠里に聞き心地の良い教卓の前の席を勧めた。悠里は先生が目を閉じるのを見てください道場で黙想するようにつられて目を閉じた。
旋律は強弱のメリハリが強く、時に粗削りな部分があるけどそれもアクセントとして受け入れられる。悠里は部屋に来た目的を忘れ、すっかりピアノに聞き入っていた。
「この曲を聞いて何を感じる?」
先生の声を聞いて悠里は目を開けると、ふくよかな先生の目が細くなっている。
「そうですねえ――」悠里はこめかみを掻いて考えた「ウチのお兄ちゃんがこの曲を練習してたことを思い出します」
思ったままの言葉が口に出た。5つ年上の悠里の兄も同じ高校の卒業生だ。同じ名前もそんなに多くないから先生も覚えているだろうという思いが言葉に出た。
「そやろ、そやろ」それを聞くと先生は何かを知ったような顔で頷いた「これを弾いてるのは倉泉の兄ちゃんやからのう」
「え?そうなんですか」
5つ年上の悠里の兄が一年生の頃に一度だけこの部屋でピアノを披露したことがあるそうだ。これはその時に録音したものであると聞いて、先生が自分に聞かせたかった意図がわかると、悠里は週に一度か二度くらいしか見かけることがない先生に急に親しみを感じた。