~そのまえの前~
「倉泉は寧子先生のお弟子さんと聞いたんで、一度授業で演奏してもらったんが、このテープなんや」
寧子先生というのは、弟子をほとんどとらないことで知られる、地元でも名の知れたピアノの西守寧子先生のことだ。家族ぐるみで付き合いのある先生で、ピアノを習っていない悠里も彼女をママ先生と言って慕っている。
姉の話では、そのピアノが子守唄だった時期があったというくらい悠里は物心ついた頃から兄はいつもピアノに向かっているのをずっと見てきた。
ただ、今流れてる曲を演奏していた高校生の頃の兄はバンド単位のロックに没頭し、クラシックピアノとは縁遠い状況だったのを記憶していただけに、自分の知らない兄の一面が聞けて少しだけ顔がほころんだ。
「お兄ちゃんも学校でピアノ弾いてたんや――」
「ま、一回こっきりのうえ本人は最初遠慮してたがね」
先生は体を揺らして笑った。
兄が高校一年の頃といえば悠里は小学校5年生の頃だ。あの時、家は一番荒れていて父は家に寄り付かず、母も仕事で留守がち。姉は就職したてで毎日余裕がなく、兄とは口を聞くこともないくらい冷えた家庭環境だった。だから当然のことながら、兄がここで演奏をしたことなど本人から聞いたことはない。
そんな心理状態で演奏された『英雄』。兄は何を思って感情を鍵盤に映したのだろう――。
「実はこの曲、けっこうアレンジが入っててな」
「へえ、それは知りませんでした」
そう言ってアレンジの入ったところで解説が入る。先生はこの旋律の中に当時鬱々屈していた兄の気持ちが反映されていると言う。
「やるべきことがある。でも、どうにもならない時もある。倉泉はそんなやるせなさを自分の方法で表現しよる」
悠里はその言葉に今の自分をリンクさせた。今の家庭環境は五年前のそれほどではないが、授業も含めてなかなか思い通りに進まない場面がある。
「あいつは、古典という基礎も大事にするけど新しい何かを見るビジョンも持っとる。そういう意味で倉泉は印象に残っているな」
先生は長いことここで教えて来たが、兄を記憶に残る数人の生徒の一人であるという。高校時分の兄をほとんど知らなかった悠里は過去から現在に続く何かが朧気に見えた気がした。
「勉強するのは当然大切なんやで――でも」
先生はピアノに腰を掛けるとテープと一緒に持っていたファイルをピアノの上に置いた。
「ウチの生徒はよう勉強しよるが、そういうところが、足りん」
「そういうところ、ですか?」
先生の話が案に示すところは、進学希望の学生がほとんどのこの高校で、余裕と遊びがないと言いたいのだろう。悠里自身はそれほど考えていないが、学校の雰囲気と授業の内容はプレッシャーがとんでもなく重いのは十分に認識している。互いに言葉はなくても文脈で同じ答えに達したようだ。
「でもな、今の生徒でもおるんや。そういうところをしっかりと持っとう生徒が」
スピーカーから流れる兄のピアノはクライマックスに差し掛かった。そのテンポとリンクするように悠里の頭が上がった。
「この部屋は基本開放してるんやけど、自主的に練習する男子がおってな、未完成なんやけど自分の考えを持ってて、ポテンシャルはあると思うねん」
「へえ――」
「ま、下の階からピアノの音がしたらココちょっとのぞいてみ。兄ちゃんとはちょっと違うけど、倉泉の気持ちに共鳴するところはあると思うで」
演奏が終わると、生徒からの拍手の音が聞こえてテープはそこでノイズに変わった。
「気持ちに共鳴するところ、かぁ」
悠里は小さく呟いて、先生の言葉の裏を考えた。もうすぐ三年になる今、周囲は受験という戦闘モードになる中、自分は未だにその空気に馴染めず勉強と同じくらいの比重で部活の剣道に打ち込んでいる。自分みたいに迷いながらも自分で道を探そうとしている生徒がいると聞くと、ここにくれば新しい何かが聞けるかもしれない。
そう思うと悠里はまたこの音楽室をのぞいてみようと思った。
「ありがとうございました。またピアノの音が聞こえたら来ようと思います。こっそり」
「うむ、こっそりな――」
悠里がお辞儀をしたあと、お互いに笑いあってリラックスすると悠里の頭に忘れていたことが思い浮かんだ。
「で、何であたしがココに来ることがわかったんですか?」
「えー、何でやったかな?あ、そうやそうや……」
その時悠里は先生の泳いだ視線を追うと壁の時計が目に入り、瞬時に新しい情報が悠里の頭に飛び込んできた。
「あ、しまった。次、体育なんです」
その針の向きは昼休みの時間は残りわずかという現実を告げるものだ、悠里はさっきの質問なんぞスッカリ頭から消えて、一目散に教室に向けて走り出した。