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4月 空っぽの僕

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 別にそうしなきゃいけない理由なんてどこにもなかったし、自転車を漕ぎながら齧ろうと思えば出来なくはなかったし、何より疲れていたので一刻も早くオンボロアパートに帰り着かなきゃいけなかったが、何故か僕は立ちすくみ更に癒されるような気持ちになっていた。まるで二段ベッドの奥に包まれて静かに潜んでいる時みたいな安心した心持ちだった。パンを全部食べ終わると、僕は再び輪郭以外は死んだように真っ暗な線路に沿って自転車を漕ぎ出した。なんだか張り込みの刑事みたいだな。


「先輩、首になったらしいな」
「いや。辞めたんだ」
「へぇ。案外潔かったんだ」
「例の展示ベッドセックスの最中に、忘れ物を取りに戻って来た上司に見つかったんだそうだ」
「先輩らしいな」
「社長に向かって清々したと大声で言って笑ったんだと」
 先輩は今でこそやる気のない自堕落社員だったが、元は誰よりも業績や売り上げを出す強者だったらしい。
 彼の一日単位で打ち立てた売り上げ数は伝説とまで言われ、未だ誰もその記録を塗り替えた者はいない。そういう意味でも、会社としては優秀だった彼の最悪極まりない行動を見て見ぬ振りするしか防御策がなかったのだと思う。
 彼が自惚れていたのかどうかはわからない。ただ1つわかるのは、彼は途中からもう会社に奉仕するのが心底嫌になったのだろう。だから、もしかしたら自ら進んで首にならざる負えない事ばかりをしていたのかもしれない。
「お前には、まだわからねーかもしれねーけど、会社って奴は俺達を働き蟻くらいにしか思っちゃいねーよ」
「それどういう意味ですか?」
「だから、まだわからねーって言ってんだ。余計な事考えねーで仕事出来るようになりゃそれでいいんだ。そうすりゃ、いつかわかる」
「はぁ」
 僕が大学出たて社会人になりたてでこの会社に入社してきた時、付きっきりで仕事を教えてくれたのは先輩だった。僕だけではない。同期の奴らも、恐らくはその前の奴らも先輩から仕事を教えてもらったのだ。それだけ先輩は会社に信頼されていたし、なくてはならない存在だったのかもしれない。僕は新入社員研修の休憩時間に、喫煙室で偶然隣り合わせて煙草を吸った先輩の口から漏れた言葉をふと思い出した。働き蟻。
 或いはそうかもしれない。先輩はそれ故に会社を見限って去って行けるように仕向けたのかもしれない。
「働き蟻は最後どうなるか知ってるか?」
「は? 蟻?」
「食われるのか?」
「わからん。働き蟻って、雌でも雄でもない蟻の事だろ」
「へぇ。雌でも雄でもないのか」
「らしい。働く為にだけ生きているから、それ以外の機能は必要ないんだと」
「なら、この会社の平社員は皆それか」
「面白い事を言う。確かにあっちの方まで回るだけの労力は、どいつも仕事で使い果たしているからな」
「先輩は雄に戻れたんだろうかな」
「さぁな」
 他愛無い会話をしながら僕達の手は休まる事知らずにキーボードの上を忙しく動く。頭では全く違う事を考えれば考える程、なにも考えない程、まるで手だけが違う生き物のように滑らかに勝手に動いて行く。
 ブラインドを降ろした窓から無理矢理入り込んでくる縞模様の弱い朝の光に照らされたその手は、見ていて気持ち悪くなるくらいだ。そしてキーボードを叩く大小様々な夢の中まで呪われそうな規則的な音。
 今朝は珍しく車内が満員で、弱気な僕は窓際を確保出来ずにあの家を見ていない。別に見られなかったからどうなると言うわけでもないし、今日はあまり良くなくなるとか、一日調子が悪くなるとか言うわけじゃない。そこまでその家を自分の時間に取り込む程、ロマンチストになれる余裕はない。どうでもいいと言えばどうでも言い。思えば僕は誰に対してもそうなのかもしれないな。付き合った歴代の彼女達も、家族も友達も、大切にしていた物に対してもそうだった気がする。
 そういえば、彼女達からは別れ際によく薄情だの淡白だの言われたな。
「人間が薄くなり続けたらどうなる?」
「中身がか?」
「まだ外見が薄くなるには早いだろ」
「そうでもない。中が薄くなり過ぎた人間は、外も薄くなり始める」
「最終的に消えるのか」
「人間そんな簡単には消えない」
「透明人間」
「と言うところか。存在感自体がなくなると言うのは」
「ある意味便利だな」
「けど、空だ。プラスチックの透明な入れ物みたいなもんだ」
「空っぽか・・」
「空虚」
「安楽とも言える」
 僕が言うと、同僚はふっと鼻で笑い、デスクに置いてあったペットボトルに入ったポカリスエットを咽を鳴らして一気に飲み干した。ポカリの色は白濁色をしていて、透明になるにはまだ時間がかかりそうだった。
 もう少ししたらショールームで接客に専念しないといけない交替の時間だ。そこに来る金持ちの年寄りや、センスの欠片も見えないプチ上流階級家庭の家族連れや、ベッド界隈の相場を知らない無防備な客を相手に、なるべくたくさんのベッドを売らなければならない。そうしなければ達成ならず、下手すれば給料に響く。
 気のせいか、部屋の中の澄んだ空気が淀んで、濃いめの酸っぱい匂いが何処からともなく漂い始めた。僕は慌てて自分の脇を嗅いでみたが、かろうじて臭ってはなかった。となると、恐らく他の同僚だろう。気持ちはわかる。わかり過ぎるくらいにわかる。だが、自分でどうにかするしかない。助けてやりたくても、助けてやれる余裕がないのだ。
 僕は重い気持ちで席を立った。同時に何人かも伺い知れないような重たい表情をして立ち上がった。そしてゆっくりとした動作で一人ずつショールームへ向かった。毎度の事ながら、僕は朝のこの瞬間が仕事の中で一番嫌いだ。

「30歳のお誕生日おめでとう」
 朝起きると、田舎の母から留守番電話への吹き込みがあった。
 そうか。気付かないうちに僕は30年も生きていたんだな。長くもあり短くもある。これからでもあり、もうそろそろでもある。とりあえず、いつも通りスーツを着てアパートを出る。
 いつもと同じ満員電車の同じ車両のつり革に揺られて、過ぎていく景色を眺めながらまだ眠っている脳みそを徐々に覚醒させる。ようやく遅咲きの桜が彼方此方咲き始めているのが目につく。
 通勤電車は同じような不覚醒な顔をした乗客をわんさか乗せて、駅から駅に太陽に照らされた仰々しい線路をひた走る。あの家が巡って来た。僕の胸はいつもよりも高まった。一瞬で興奮したと言うのが正しいのかもしれない。
 桜色をした花をつけた若木がしなやかに伸びる湿地帯のような影の庭に人がいた。30前くらいの女だった。何てありがちな展開だ。その形良くシニョンを結った女は、透き通るように綺麗な肌をしていて可愛かった。更にありがちな展開だ。昼ドラでも視聴率は狙えそうにない。ベタ過ぎる。とりあえず僕はいつもの通りその女を視界の隅で捉えつつ、あの植わった木は桜だったんだなとか、そんなどうでもいい事を思いながらなんとか10秒をやり過ごした。まったく。神様だか誰だか知らんが、在り来たりの下手くそな演出だ。
「朝から酷い面してんな」
「いつもの事だ」
「いつにも増してだ。なにがあった?」
「30になった」
「だからか」
「だからだ」
作品名:4月 空っぽの僕 作家名:ぬゑ