4月 空っぽの僕
僕は同僚とそんな事を話しながらもいつものようにキーボードを売って作業を進めていたが、しかしキーボードを打つ手が今日に限っては滅茶苦茶だった。まるで、忠実な仕付けの良い利口な犬が変な物を食べて突然おかしな行動をとり始めたかのように、間違ってタイピングしデリートして戻ってはまたタイピングをミスるの繰り返しで実際にはほとんど進んでいなかった。その挙動不審な手は、キーボードから解き放ってしまうと勝手に何か全く別の行動を取りそうな雰囲気だった。なんてこった。あんな女、僕には関係ないんだ。
僕は深呼吸をすると指先に神経を恐ろしく集中してキーボードを叩き始めた。その隣でもう書類作成が終わった同僚が、相変らず透明なペットボトルのポカリを飲んで一休みしていた。気のせいかそのポカリの色が数日前より幾らか薄くなっているように見える。いや。そんな筈ないな。きっとブラインドから入ってくる朝の光が今日は強過ぎるんだろう。外では春一番紛いの咲き始めたばかりの非力な桜を容赦なく吹き叩く強い風も吹いているし。春の嵐。そんなフレーズがふと浮かんだ。
あの女はどんな声で、どんな風に話す女なのだろう?
そう考え始めると、堪らなくなり増々落ち着かなくなってきた。今日、帰りにわざといつかの駅で降りて自転車で帰ってみようか。
あの女はこんな馬鹿げた大袈裟なベッドでなく、きっとシンプルに布団にマットレスなんかで寝ている筈だ。そうであって欲しい。何もないと思っていた僕の中にも、こんな感情が芽吹いてくる部分がまだ生きていた事に何より驚きだった。しかもこんな下手な展開なのに。この感情は雄が雌に魅かれる求愛行動の元になる感情だろうな。なら、僕は雄だったわけだ。と言うか、雄になれたわけだ。成る程。
「珍しく随分手間取ってるな。どうした?」
目の錯覚か、全体的に淡い色になっている同僚が待ち切れずに声をかけてきた。
「大した事じゃない」
「嬉しそうだな」
「空じゃなかった」
「そう言う事か」
「そう言う事」