11月 ムカデの夢
使い込んで美しく色の馴染んだオーク樽のような品のいい低い声がして、髪をオールバックにした小柄な恰幅のいい男が満面の笑みで私達を迎えてくれた。
まるで用途を完全に無視して作られたような不自然なくらいに長いカウンターの右端では、初老の男2人が若い綺麗な女性のフロント嬢相手に和やかに話し込んでいる。夫は一瞬そっちを羨まし気に見遣ったが、すぐに笑顔を作って小男と向かい合った。
小男はまるで色黒のパグのような顔立ちをしていた。
お世辞にも人間の顔とは言えないが、かろうじて耳が目の横に沿った線上についているから人間だと判別出来た。だからだろうか、基本的に男より女好きの夫がやけに好感を持って頷いて話しかけたりしているのは。夫は大の犬好きなのだ。
「朝食は朝の7時から召し上がれます。会場はここ一階にある、あちらのレストランでございます。大浴場は最上階の30階にございます。こちらは24時間いつでもお入り頂けます。こちらがルームキーでございます。お部屋は18階の135号室でございます。なにか不備がございましたら、備え付けのお電話ですぐお呼びつけ下さい。私、桃井と申します」そう言って男は、声とは裏腹の鼻に刻まれた皺を僅かに動かしながら悪代官のような節操がない笑い方をして、楕円形をした紺錆色のプレートに銀の文字で135と彫られたキーホルダーのついたルームキーを差し出した。
そのプレートにはルームナンバーを首に巻いた厳めしい面をした犬が彫られていた。
なんだかそのプレートに触るだけで噛み付かれそうな感じすらした。
それにしても他のビルに埋もれるようにして佇む、明らかに30階建てではないだろうこの建物の一体何処に最低でも135程も部屋があるのかと私は不思議に思った。
夫は愛想良くルームキーを受け取ってエレベーターに向かった。
犬男はやはり小型犬のようにせかせか出てきて、思いのほか軽々と2人分のみっちりと詰まった重いトランクをエレベーターホールまで運んできた。
「桃井さん、下のお名前はなんというんですか?」
私は桃井さんの名字からは全く想像できない迫力ある番犬のような風貌と、気圧されて逆にこちらが申し訳なく思ってしまう程の今にも噛み付かれそうな雰囲気すら漂う厳存な様子を眺めながら、なるべく失礼な事を口走らないように気を付けて聞いてみた。
「早春の早で、桃井早太郎と申します」エレベーターの扉が森の奥深くに漂う空気のように音もなく静かに開いた。
「ごゆっくりお過ごし下さいませ」
桃井さんはエレベータ内に丁寧にトランクを2つ乗せると、18階のボタンを押してから外に出て、品よい角度にお辞儀をしながら扉がまた音もなく閉まるのを見送った。
私達2人はもうかなり長旅の疲れが出てきてしまっていて、夫でさえもさっさと大浴場に行って戻ってくると、夕飯も食べず、冷蔵庫のビールすら飲まずに珍しく眠ってしまった。
私も夫に見習って、大浴場から引き上げてくると、備え付けのお茶を煎れて飲みながら、明日は早く起きて散歩に行こうと思っている途中で意識が途切れてしまった。
2
祥二は会う度に執拗に私の手首の様子を調べた。毎度、無言であの混沌とした伺い知れない強張らせた表情を思いっきり顔に張り付けながら。
もうムカデの黒い足は抜糸され、胴体と同じ赤色になってけれどもまだ生々しくハッキリとそこにあった。
「そんなに怖い?」
ある時、いつものように怪訝な表情で手首を調べる祥二に、何の気なしに聞いてみたのだ。
祥二は憎しみさえ籠っているのではないかと思うくらいの恐ろしい眼差しで、にわかに私を睨み据えた。
何? どうしてあんたがそんな顔をしなきゃいけないの? 意味がわからなかったので、私は構わず続けた。
「そんなに傷が怖いの? 案外、血とかダメな感じの情けない系だった?」
瞬間、なにが起きたのかわからなくなった。
目の前が一瞬大きく傾げて揺らいだ。白濁しながら、同時に強い力で顔を横に跳ね飛ばされて頰に痛みを感じた。
私は自分がどうなったのか理解するまでかなり時間がかかった。ただぼんやりと制服のスカートを無意識に掴みながら祥二の前に蹲って、獰猛な炎で真っ赤に燃えて、拳を震わせている祥二の顔を仰いでいたばかりだった。
え? 今なにやったの? もしかして殴られた? すぐには信じられなかった。自分が家族以外の他人に殴られたなんて。
祥二はそんな私には一向気にせず、なにか憎しみの対象に向かってものを言うように冷え冷えと淡々に、けれどはっきりと言った。
「ははは。怖かねーよ。俺はな、自殺なんて考えて実行するようなはた迷惑な人間が大嫌いなだけだ」
祥二の顔の炎は赤から青に変わり、増々高温に冷酷に燃えている。もはや、持ち前の祥二の表情が思い出せないくらいだった。
私は力なく唖然として、一気に知らない他人になってしまった祥二をただ眺めていた。どうして祥二が怒ってるのかわからなかった。
「でも、関係ないじゃん」
私は掠れた声でようやく言葉が口をついて出たが、それが増々いけなかった。祥二は足下の私を力こそ強くはなかったものの勢いよく蹴ったのだ。
「マジでバカだ、お前。俺の親父はな、自殺したんだよ!俺達を無責任に残してなっ!」
私は自分を守ろうとする事で精一杯で祥二の顔を見る余裕なんてなかった。
ぼんやりと得体の知れない残像が体に打撃を食らう度に元の位置に戻っては又行き交う、瞑った明るい暗闇の中に祥二の辛そうな声だけが次々と大きく反響してくる。
「俺が最初に見つけたんだ! 親父は小便垂れ流して、ようやく楽になれるって顔して、笑いながら死んでやがったんだ! 自分の事だけ考えて自分勝手になっ! 俺は親父を許せない!自殺なんてする無責任な人間は大嫌いだっ! だのに、お前までなぁっーー・・・!」最後の方はもう苦しそうな呻き声にしか聞こえなかった。
不意に攻撃が止んで、私が恐る恐る目を開けると、祥二が半泣きして涙を汗みたいに垂れ流しながら、頭のてっぺんから爪先まで体中余すとこなく力をありったけ込めて床に根でも生やしたみたいにつっ立っていた。
全ては見事に一時停止していて、次のアクションが始まるか又繰り返すかの狭間の休憩時間みたいな奇妙な沈黙の中、祥二の頰から色褪せたシミだらけで所々剥げた元は白だったろう汚いカーペットに、ぼたぼたと絶え間なく微かな音をたてて落ちていく涙だけが動いていた。
ちょうど私の目の高さに、血管が飛び出す位に強く握っている祥二の拳があった。
そんなに強く握りしめているのに、静物画のように、まるでずっとそうして握っていたかのようにとても自然に当たり前に落ち着いて見えたのだ。私はそれを愛おしさすら感じて眺めた。
特になにかを言おうとした訳ではなかったが、私がふと口を開いたのを見たのか見なかったのか、祥二は荒々しく扉を開けると外に出て行ってしまった。トラックのエンジンをかける音がして、祥二が出て行ったのと同じくらいに騒がしく遠ざかっていった。
残された私は途方に暮れた。