11月 ムカデの夢
が、家に帰る事も出来なにのでとりあえず鼻をかんで、そのまましばらく座り込んで祥二が帰ってくるのを待っていた。ここは祥二の家だから必ず帰ってくるんだから。
隣のお爺ちゃんは今日はデイケアの日でいなかった。なぜか手首がやけにずきずきと痛んだ。
どうしてこんな事になったんだろう?
私が事の起りを思い出そうとしていると、裏の勝手口が開く音がして、廊下を誰かが歩いて近付いてきて、次いで扉をノックしてきた。
「兄ちゃん、兄ちゃん。悪いんだけどさ、ムース貸してくれない?」2つ下の弟君だった。
私は迷わず扉を開けた。茶髪の前髪を垂らして、祥二とは全然似てない猫目に黒斑の眼鏡をかけている痩せ気味の弟君は若干びっくりしてはいたが、私の事は以前から知っていたので、構わずに聞いてきた。「あれ。兄ちゃんは? 買い物行ってる?」
「う、うん。そんなとこ。勝手に持ってっていいよ。帰ってきたら言っとくから」
「うす」
黒い制服のズボンに白いワイシャツの上に同じく白いセーターを重ねて着た祥二より背の高い弟君はさっさと部屋の中に入ってきて、ムースの固めて置いてあるコーナーに行き幾つかある中から一番カラフルな一本を選んでまず手に取った。スーパーハードタイプと記載されているのが見えた。
私は祥二と同じように慎重にムースを選ぶ弟君の後ろ姿を眺めながら、ふと聞いてみた。
「・・・お父さんはどうして亡くなったの?」
弟君は特に顔もあげず、振り返りもせず調子も変えずに、まるで携帯を耳に挟みながら面白くもない世間話でもしているような感じで話した。
「いや。俺も詳しくはよくわかんねーんすけど、色々大変だったみたいっすよ。この部屋で首つりして死んだんすよー」
弟君はムース缶から目を離さずに説明書きを読みながら、振り返り続けた。
「兄貴が第一発見者だったんすよ。かなりショックだったみたいで、その後しばらく落ち込んでましたねー ま、俺は見てもないし、親父に対してそんなでもなかったから、別になんともねーんすけど。兄貴は俺と違って責任感強いから余計に色々思う事があったらしくてー・・ よし。これにする。じゃ、俺もうバイト行くんで、兄貴に宜しく言っといて下さいねー」そう言って弟君は涼しい顔をして、選んだムース缶片手に口笛を吹きながら出て行ってしまった。
私は古くてヤニで変色している部屋の電気の傘や、柱の梁を一通り眺めながら溜息をついた。 ここでねぇーー・・・
祥二の辛そうな表情が浮かんで途端に意味がわかったような気がしたが、なんだか一変に面倒臭くなったのでシャットダウンして投げ出した。
ー知らんわ、そんな事。
祥二の暴力はあの時以来はそんなに目立っては起こらなかった。
相変らず私の手首を見る目付きは変わらなかったが、私も特に怖いと感じもしなかった。手首を見る時以外は、至って温厚で優しい普通の祥二だったからだ。だから、私もすっかり忘れた気になっていた。
「ねえ。ねえ、吹雪起きなよ。今日こそ学校行きなよ」
寝起きの良い祥二がとっくに自分の支度を終わらせて、まだ布団に包まっている私を揺さぶった。
朝になっていたが、窓が1つしかない祥二の部屋は薄暗くて電気を付けなければいけなかったので、まだ夜のような気分がして、寝坊助の私は起きるのがおっくうだったので無視した。
「起きなよ。吹雪のお母さんにも頼まれているんだから。吹雪が卒業出来なくなったら俺のせいになる」祥二が気弱そうに、そのくせ責任感にかられて強く揺さぶり続けた。
「なあ、起きろよ。送っていくから」
その言葉を聞いて、私は目を開けて祥二を見た。「なら、朝マック食べたい」
「いいよ。でもドライブスルーでな」
「ぃやったぁー!」私は勢いよく布団を飛び出していそいそと支度を始めた。
唖然としてそれを見ていた祥二は薄く苦笑いをして、現金なやつと言った。祥二は、例の、私を散々叩いたり蹴ったりした事を心なしか申し訳なく思っているのか、以前より少しだけ優しく甘やかしてくれるようになった気がする。詫びのつもりなのかもしれない。
学校に向かう道の途中にあるマックで、エッグマックマフィンと野菜ジュースを購入して、それを齧りながら私は特になんの気なく聞いてみた。
「お父さんってどんな人だった?」
お気に入りのアーティストを集めた自作の音楽編集テープから流れる歌を機嫌良く聞きながら、前方を見て運転している祥二の目元が、ほんの一瞬見逃してしまう程微かに動いた。言ってしまってから、私は些か自分のノリの良い軽い口を後悔した。
いつもそうなのだ。
頭で考えて判断してから言葉を発するようにしているのだが、慣れている相手や親しい相手だと冗談や好意に任せて本当に何の気なしに、その時にふと浮かんできた言葉をただ発してしまうのだ。
それはある意味自然なのかもしれないが、慣れない相手に使うと想像以上に相手を傷付ける事態を招いてしまう。そして今、過去を刺激された祥二の私との間には、微かな溝が出来ているのだと言う事を私は全く考えなかった。
私にとっては、私が起こした事で母や祥二に心配をかけたのは重々承知しているが、祥二の過去の事までは知らないし、酷な良い方をすると、それは祥二が自分で処理して乗り越えて行く類いの事であって、付き合った私が似たような事をしたからと言って、私のせいみたいにするのは不条理だと思っていた。
腹立だしさや、苛立はわかるけど、私はきっかけを作っただけで、祥二の抱えているそれを全部背負って償うなんて出来るわけないし、例え出来たとしても祥二にはなんにもならないと思う。だって、誰かがなにをしても最終的には自分でどうにかするしかないのだから。
それに、自分の気持ちや思いをどうにか出来るのはやっぱり自分だと思うし、他人ができるのは求められた事に対して出来る範囲で答えるか、見守るかのどちらしかないと思う。それだって、よっぽど相手を大切に思っていたり、愛していないと付き合えるもんじゃない。余計なおせっかいや助言は、それを求めてない相手にとっては無意味なのだ。
唯一僅かでも入っていけるものは自分が相手をどんなに大切で好きかと言う事と、心配していると言う事だけなんだ。
「厳しくておっかない親父だった。俺はよく殴られた」
苦虫を噛み潰したような表情になった祥二は、太陽に輝く朝の街路樹と住宅が千切れるように過ぎて行くフロントガラスを睨んだまま乱暴に言葉を吐き捨てた。
祥二はその後、学校に到着するまで始終無言のままひたすら乱暴に運転を続けた。そのあまりの荒さにさすがに怖くなって、途中降りてしまおうかと思ったが、スピードも出ていたので無理だった。
チェンジレバーやギアを手慣れてはいるが、怒りを表すように操作する祥二を私はぼんやりと眺めながら、こんなに近くにいるのにやけに遠くなったんだなと思った。でも、そもそも私達は近いところにいたのかな?
それすらよくわからないな・・・
私は無心に残りのエッグマフィンを齧って咀嚼しながら、祥二から無理矢理目を引き剥がして、同じフロントガラスに映る祥二が見ているのとは違った全体的に穏やかな青緑色に流れていく景色で気を紛らわせようとした。