11月 ムカデの夢
私は特に後悔もしていなかったが、優越感と言う感じでもなかった。してやったりと言う気持ちではあったが、心配している母や祥二に対しては漠然とした安心感すら覚えていた。
あぁ、心配してくれるんだ。私を心配してくれているんだ。やって良かったとも思っていた。それは私から見た光景であって、祥二や母にしてみたら、なんてバカな事をやったのだと思うだけなのかもしれないが、少なくとも私にはその方法でしか自分の存在意識を確認出来なかったのだと、17の私は迷う事なく思い込んでいた。
祥二は自分の家に帰ると、さっそく私の片手でめちゃくちゃに巻き付けられた包帯を丁寧に取って、そのばっくりとした傷口をなにも言わずに顔を引きつらせたまま怖々と観察した。
祥二の家には親がいなかった。
いるのは弟と祖父と猫だけだった。元々父親だけの片親家庭だったらしいが、2年前に父親が死んでしまってからは、保険金と祖父の年金と、兄弟のバイト料と、祖父の世話を押し付けている伯父さんが毎月送ってくるお金で暮らしていた。
土方のバイトをしている祥二と、パチンコ屋でバイトしている弟だけでもだいぶ稼いでいたので、暮らしぶりは全然悪くなかった。
料理をしなくて買い食いばかりでも、飼っている猫が喧嘩して病院に通院しなきゃいけなくても、お爺ちゃんが漏らしてしまって布団を新調しなきゃいけなくなっても余裕みたいだった。
祥二が使っている洒落っ気もそっけもない薄汚れたベージュの軽トラックは、家でも会社でも何台か車を持つ伯父さんから借りているらしい。
「けっこう切れてるじゃんか。病院に行った方がいいよ」
祥二はひたすら顔を強張らせて私の顔なんか見もしないで、傷口を凝視しながら言った。
私はそんな怯えているような怒っているような祥二の様子をじっと観察した。
「行かない」
私は言い張った。頑固な事にかけては私の右に出る物はいない程、私は小さい頃から頑固だった。それは祥二もよくわかっていたので、呆れ混じりの溜息をついてから、私のお母さんに電話してと言った。
「やだよ。しない」
「俺が話すから」
祥二は冷ややかな空虚さすら秘めた黒めがちな眼差しをして、威圧的とも取れる雰囲気で静かに私を見据えた。
私は負けるもんかと睨み返したが、どうしたわけかあんなに溢れていた威勢は何処へやら、いつもと違う荒々しい野生の狼みたいな顔の祥二が怖く感じてしまい、渋々母に電話をかけて祥二に渡した。
祥二はなにか母に聞いて指示を仰いだりしていたが、わかりましたと電話を切った。それから、さっき買って来たコンビニの袋を引っくり返して、新しい包帯と消毒液とテープでおぼつかない手つきで手間取りながら私の傷口を手当した。
部屋のたった1つの窓の曇りガラスは、いつのまに染まったのか夜の帳色で吸い込まれそうな程濃くなっていた。祥二の部屋は常に電気が点いているから時間がよくわからなくなるが、窓の色を見れば大体わかる。
私はその暗い曇りガラスに分解されて微かに映ってうごめく元はこっちの様子をしたものをぼんやりと眺めた。
祥二はその後、ご飯を食べる時もお風呂に入れてくれた時も何も言わなかった。その無表情な動作は辛そうにも、憎々しそうにも、なにかを堪えているようにも見えた。
布団に潜って眠りにつこうとした時、電気の紐を引っ張って豆電球にした祥二が隣に入ってきて背を向けて寝転がりながらふと呟いた。
「死ななくて良かったな。死んでたら俺らみたいに惨めに残される人間が増えてた」
まだなにもわかっていなくて、自分の事だけだった私には、祥二の呟いたその意味は断片的にしか理解出来なかった。
少しすると、祥二は規則的な寝息をたて始めた。
私は、陰気な橙色を暗闇に投げかけて更に陰気にしている、恐ろしくぼんやりとぶら下がっている豆電球と、その下に微かに揺れている怪しい蛍光緑の丸い引っ張る紐の先についた目印玉を眺めていた。
祥二のいびき混じりの寝息の合間をぬうように、何処かから途切れ途切れに、タイミングを指示された笑い声みたいな音やテレビの音の波みたいな雑音が聞こえてくる気がする。眠れない。
包帯がグルグル巻きになっている手首を持ち上げて、しばらく眺めてみた。
医療品独特の消毒された殺菌や減菌的なふっとした匂いが、辺りの空気に微かに広がった。もう痛みはなかった。
不安定な感じもしなかったが、余計に裂けるのが怖くて無意識に常に前屈みになるように気を使って動かしているのに気付いて、不意におかしくなった。
あんなに死を恐れなかったくせに、生き残ると途端に体をいたわり始める。一度はもういらないと自分を捨てた筈なのに。
そのまま続行する事も出来たではないか。猛烈な痛みに堪えながら傷口を更に広げる事も、その下を切る事も出来たではないか。
それをしなかったのは、やっぱり私の目的が本当に死にたいと思うものではなかったから。甘えとか弱さの部類に属する種類の死にたいだったのだと思う。それは生に執着する良い事なのか、それとも意気地なしの負け犬だとわかった悪い事なのかわからなかった。
判別する事もないのかもしれない。理由や心意気なんてどっちみち、死んでしまえば関係ない。同じ事。
ー私は未遂、死んでない、ただそれだけ。そんな事をつらつらと考えながらも私は特に反省もしていなかったし、もう死なないようにしようとも思っていなかった。
まだ自分の死と言うものに無頓着で、これから先に、なにかあったらまた死のうとするのかもしれないとも感じていた。
それだけ私は自分の存在に対して、特に意義や価値を見出す事が出来なかったし、執着もしていなかった。私がいなくても、なにも変わらないのだと。
そうだ。結局、それが結論だ。それだけはやっぱり変わってはいなかった。
2日後、私は母に連れられて病院に行き傷口を縫い合わせた。傷口は黒い足の8本ついた小さなムカデみたいな形になった。
*
「お、あそこだあそこ」
調教されて行儀良く成長した程良い高さの街路樹が等間隔で植わっている大通りに沿って立ち並ぶビルの中の1つの、小綺麗な細長いさっぱりした建物を夫は指差した。屋上には黒地に銀色の字でHotel Black Dogと記されたそれほど大きくないシンプルなステンレススチールのプレートがかかっている。
ホテル選びはこだわりのあるらしく主張する夫に任せてあった私は、特に何の感情も湧いてこないままに興味無くその建物を眺めた。
「よし。宿の場所もわかったし、腹ごしらえも済んだし、チェックインまでまだ時間あるから、記念撮影しながらトウキビでも齧るか」夫は独り言のように言うと、まだ考えながら見上げている私を残して、テレビ塔のある大通り公園まで2人分のトランクを引きずってさっさと戻って行った。
私は隣にいた筈の夫がいない事にようやく気付き、慌ててその後を追っていった。夫はしばらく歩いて噴水の前まで来てトランクを立たせると、振り返って眩しそうに目を細め、口角を軽く上げた表情をしながら、私の方をじっと眺めていた。