11月 ムカデの夢
ムカデが熱を持って脈打っているのがわかって、必死に平静を装いながら何とか落ち着こうとして、テレビのような窓ガラスに映っては通り過ぎていく緑の平原と所々に点在するメルヘンちっくな可愛らしい住宅や白樺の林を眺めながら、私は心底空恐ろしい気持ちになった。
「やけに静かになったけど、どうした? 酔っちゃった?」
相変らず喋り続けている運転手の名産話に相槌を打っていた夫が、急に意気消沈して窓ガラスをぼんやり見つめる私に気付き、伸ばしっぱなしにしていてようやく2日前に肩まで切って緩やかなパーマをかけた私の髪に軽く指を絡ませながら不思議そうに聞いてきた。
私は首を振った。「・・・平気。お腹が減り過ぎただけ」
「そう。俺の嫁さんは空腹にめっぽう弱いから。もう少しだからな」
「うん」
そう言って私はくしゃみを1つすると、また和やかな土の匂いがするだろう大地と、絵筆で走り書きしたような雲が伸びる青空が広がる窓ガラスに目を移した。まだ何処かから、あの射るような不安定な視線を感じるような気がしていた。思い過ごしだ、そんなわけないと強く自分に言い聞かせた。
そう。楽しい旅行。なにも気負う事も心配する事もないんだ。きっと疲れたんだ。少し、少し眠ろう。そうすれば、目が覚める頃にはご飯が食べられる場所に着いているだろうし、きっと気分だって良くなっているはずだから。
眠りは精神安定剤。
私は、夫に聞こえないように、ごく静かに深呼吸をしてから改めてシートに深く身を沈めて固く目を閉じた。長時間のフライトの疲労感からか、思いのほか眠りは早く訪れた。
夫と運転手の声が、徐々にぼやけて滲むように様々な頭の中を満たす周波数と混じり広がっていく。
私は、規則正しく響く車の振動に揺られ、ほの温かいその意識の中にぐったりと浸かって体の力を抜いた。
1
「ムカつく」
どうしてそんな事を言われなきゃいけないんだ。私にだって意思はあるんだ。
指図しないで。命令しないで。勝手に解釈しないで。決めつけないで。
バカにしないで。
私は私。私だってちゃんと考えてる。
どうして聞いてくれないの?! 私は小さな子どもじゃない。
自分が頭良くないのは知っているけど、そんな事自分がわかっていれば充分でしょ?
比較なんてうんざり。くだらない仲間意識もうんざり。平凡な生活もうんざりだ。
腹が立つ。
腹が立つ。全部消えちゃえ。みんな死ね!
大人と子どもの中間地点。大人が考えているよりもずっと様々な事を敏感に感じ過ぎていて、子どもの時よりも色々な現象を理解し過ぎてしまうくせに、反抗期と退屈さがうっとおしい影のように付きまとう年頃。
やる事なす事、口を開く度に立場の不条理を、自分の意義を喚き散らしていたように思う。それが、私はことさら強かったように思う。けど、そんな簡単に物事は消える筈なかったし、人は死ぬわけなかった。そこで、ふと思いついた。
そうか。誰かが死ぬように呪う前に自分が死んじゃえばいいんだ。その方が手っ取り早くて簡単。そう思ったから、リストカットをした高校二年の春。
でも、所詮は世間知らず17歳の自殺素人だった。運が良いのか奇跡的にだったのか、剃刀で手首を切ったはいいが、思ったよりも出血は少なく、どうやら動脈から外れたところだったらしく意識までしっかりあった。
何だこれ。拍子抜け。が、赤くて生々しい肉と微かに白い筋が覗く中途半端にぱっくり口を開けた切り口を更に広げる勇気も度胸もなかったので、私はそのままブラインドの隙間から差し込む春休み終わりの昼の光る縞に照らされた、フローリングの上にできた直径20センチ程の案外鮮やかな血溜まりをぼんやり眺めていた。
死ねなかったのだ。そういう行為を実行して未遂に終わった。
少なくとも手首は切れた。自分を死に至らしめる事こそできなかったが、傷つける事には成功したのだ。
私は、口ばっかりたいそうな事を並べ立てて、そのくせみみっちく自分を守る弱虫なんかじゃなかった。この傷をもって、示したのだ。虚無を訴えてもどうせするわけないってバカにしていた祥二や、対した事じゃないと相手にもしてくれなかった親や周りに。私は心底本気だったと。
死等怖くはなかったのだと。そこまで思考がまとまると、他にやる事もなかったのでとりあえず寝っ転がって、窓の外の呑気な速度で通り過ぎる綿飴みたいな雲が浮かぶ平和な青空を眺めていた。その時、喧嘩していた祥二から電話がかかってきて、今近くにいるから迎えに行くと言ってきた。
そのまま、死んだ振りして寝っ転がっているのもなんだったから丁度よかった。
私は起き上がって、適当に血をティッシュで拭ってゴミ箱に放り投げ、救急箱を引っ張り出して傷を適当に消毒してガーゼを当てて包帯を巻いた。その時、母が買い物から帰ってきた。
「またあんたは。休みの日は制服なんて着なくてもいいじゃない。それともどっか行くの? それ、着過ぎてボロボロよ。繕ったり洗濯したりするから、置いときなさい。そんなの汚らしいでしょ」そう言った後で、目敏い母は私の隠し気味の手首をいち早く見つけて素早く聞いてきた。
「あんた、それどうしたの?」
私は態度悪く母の問いには答えなかった。ただ、出掛けてくるとだけ言った。
「ちょっと待ちなさい!その傷見せなさい!」
玄関のチャイムが鳴った。祥二が来たのだ。私は色の褪せたスニーカーを引っ掛けると、玄関の鍵を開けた。
祥二が、その色黒のシェパード似の顔に些か戸惑いを漂わせて突っ立っている。母に気付いてぎこちなく挨拶する祥二の腕を無理矢理引っ掴んで、軽トラックに向かった。
「祥二君!吹雪の手首、お願い!」
祥二は母の叫んだ事が一体なんの事だかわからないで、キョトンとしながら一応頷いたが、既に助手席に乗っている私の手首を見ると一気に顔を曇らせた。
「なにした?」
訝しそうに聞きながら軽トラックを発信させる祥二に、私は相変らずなにも答えなかった。なんと言ったらいいのかわからなかったのもあった。
祥二はそんな私をバックミラー越しや信号待ちしている時なんかに横目で見ていたが、特になにも言わなかった。しばらく2人共無言のまま祥二の家までの道をひた走った。
「・・・自分で切った 剃刀で」何度目かのカーブを曲がった時に不意に私は呟いた。
何故か家を出る時の心配そうな母の顔が脳裏に焼き付いていたから。もう周りへのアピールは充分だろうとも思った。
「っーー・・・!なんて、事してんだよーー!」
祥二のその静かに唸るような言い方は私に向けられたものではなくて、まるで自分に言い聞かして呟いているみたいに聞こえた。それがまた母の顔のように、何故か私の胸に突き刺さったのだ。祥二はそれ以上はなにも言わずに、ただひたすら帰路を急いでいるようだった。
途中のコンビニで停まり、一人で乱暴に降りていってなにかを買って戻ってきた。そんな祥二の顔は、始終少し不貞腐れているような表情だった。