11月 ムカデの夢
ジュースを吸う音は得体の知れないところから響いてくるうっとしい蝉の声と混ざり合って、まるで熱気が充満しているそこらの空気を歩き回るようにしていつまでも残音を引きずっていたが、突然吹いてきた突風に澪の足下のビニール袋ごと一気に吹き飛ばされていった。
「生温い風でも、吹けば気持ちいいね」
澪が痩せ気味の華奢な背中越しに呟くように言った言葉は、私の耳に届くや否や風に乗ってビニール袋の後を追うようにあっと言う間に何処かに飛んで行ってしまった。
2人の髪も、汗ばんだシャツも夏服の軽めの紺色のスカートも玩ばれるように面白い程クシャクシャに乱れる。
「また、あたしになにかあったら助けてくれる?」
いつの間に振り向いたのか、澪がその幾らか日にやけ始めた黒っぽい顔をこっちに向けてほんの小さな声で聞いた。眼差しはいつになく鋭く、まるで睫毛の多い本物の山猫みたいだった。
「・・・いいよ」
私は短い髪を風に滅茶苦茶にされながら、くたっとなった悲劇的なコロッケを摘まみ上げ、眉間に皺を寄せてなにも考えなしに口に放り込みながら気軽に答えた。口にコロッケな無惨な腐乱死体の舌触りともの悲しい匂いが広がった。
「でも、今はあんたの方が強いよ」口直しに白いご飯を口に詰めながら、もごもご言葉を継いだ。
私にはさっきみたいな場面に遭遇したら、遭遇する事は未来永劫ないかもしれないが、もし間違って遭遇したら澪のように、とっさにものを考えてああまで相手をも納得させるようには切り抜けられない。澪は成績も優秀だけど、私は頭が悪いのだ。
20歳前にセックスしてばかりいると、快感の物質ばかり増えて考える力が弱くなりバカになる。なにかの雑誌で読んだような文が一行浮かんできた。
或いはそうかもしれないな。
風にさらわれたビニール袋は、遠くに舞い上がって楽しそうに玩ばれながら飛んでいたが、まだその姿が見えた。光合成をするように目を瞑り顔を空に向けて寄り掛かる澪の後ろで、見えつ隠れつしているビニール袋を、私は半透明の幾つかの滲みがエアホッケーの円盤のように滑って漂っている視界でぼんやりと追った。
「あたしは今も昔も変わらないよ」
澪がその首が痛くなりそうな姿勢のまま、目眩でもしたのかズルズルとしゃがみ込み、シャツの胸ポケットに手をあてた。
気のせいか顔色が悪い。日に当たり過ぎたのかもしれない。
私は傍までいって日陰に引っ張って行こうと、澪の細い腕を掴んだ。けれど、予想に反してその腕の体温は低く、むしろ冷房で冷え過ぎているくらいの体温だった。
「寒がりだから、なるべく日に当たりたいの」
気弱そうに掴んでいる汗が滲み始めた私の手を優しく振りほどいて、澪は微笑みながら、手の平よりも遥かに小さな古ぼけたピンク色の巾着をポケットから抜き出した。そして、にっと笑って機嫌良く言った。
「お守り。これのお陰で私はなんとか切り抜けてこれたの」
「へぇ・・・」
「吹雪ちゃんのお陰」
?
どこか陰気な感じの間延びした始業のチャイムが食後の睡魔を誘うように鳴り響いて、勉学に関しては真面目一途な澪は速やかに立ち上がると昇降口を開け、先に階段を降りて行ってしまった。
次の授業はつまらない世界地理だ。夏休みは終わったばかり。また気怠い毎日の繰り返し。
私は引き続き残った弁当を食べ終わると包みで結んで鞄に投げ入れ、片耳にイヤホンを突っ込んで立ち上がり、額から流れてきた水よりもさらっとした汗を拭った。
音楽鑑賞の時間。
窓際の一番前の席で、熱心に先生の講義に耳を傾ける澪を、その遥か後ろの席から私はイヤホンをつけた耳を方肘をついてわからないようにしながら、立てた教科書の後ろでぼんやり眺めていた。
生徒の大半が昼休み後のどろんとした睡魔と戦いながら、中には完全に昼寝しながら授業を受けていた中で、澪だけが真剣に黒板を睨み、子守唄よろしく間延びした声で回りくどい説明をする老先生の言う事を素早くノートに書き付けていた。
窓が開け放たれた教室の窓からは、ひかれた白いカーテンを翻しながら生暖かい透明な光の風が生徒の頰を撫でていた。
汚れ始めたカーテンが捲り上がる度に、窓に張り付いた反射版のように明度の高い青い空が見える。
「えー・・・で、ありますから、この海岸を高い高い空の上から眺めますと、本当にもう背骨のようなこんな形に見えるわけですな。では、何故、このような形になったのかと申しますと・・・」
ぶーんぶーんと小さな黒い羽虫が入ってきて、教室内を一周するとカーテンの上にくっ付いた。その下で、うつ伏せになって寝ていた男子が、寝ぼけて腕を動かした拍子にカンペンケースを思いっきり床に落とした。
カンペンケースが弾け飛ぶような、かん高い音がやけに拡張されて教室中に響き、大半の生徒が驚いて覚醒した。
ヨダレが口に光っている男子は、きまり悪そうにそれを拾って恭しく教科書の位置を少し直したりして何もなかった振りをしていたが、しばらくするとまた眠りに引きずり込まれていった。
平和な気怠い退屈の象徴とも言える、撓わにゆれる青い果実のような景色。
方耳から流れている軽い8ビートが心地よく絡み合う午後。
永遠すら感じさせるような惚けた輪郭を持つ夢現つの時間。その中で、1人違った場所にいるかのように、くっきりと聡明な眼差しで勉学に没頭する澪。
重たい瞼を無理にこじ開けているからか涙が出てきそうになったので、私は諦めて目を穴の空いた机に落とし、方肘を支えにうつらうつらし始めた。誰かがまた筆入れを落とした鈍い音が遠くで聞こえた。
*
「澪は、よく一番前の席で嫌じゃないね」
席替えがあった日の放課後。
ホームルームでの席替え最中、一番前になった子がごね始め、その時に澪が真っ先に手を上げ、すぐに代わってあげたのだ。
「あたしは、一番前の方が楽なの」
澪は私のよりも遥かに多い教科書と参考書を鞄にぎゅうぎゅう詰め込みながら笑って振り返った。
「どこが? 楽じゃないじゃん。先生がすぐ目の前だし。下手したら唾飛んでくるし」
「あはは。唾飛んでくるのは嫌かもー」
「ほらね」
「でも、あたしは一番前の方がいい。だって、前には先生以外誰も見えないじゃん」
澪は心底嬉しそうに、にっこり笑って陽気に言った。
「前に誰か見えるとうざったくて無理。前の席なんて、かなり後ろだったじゃない? もう毎日毎日気持ち悪くて吐きそうだったもん」歌うようにそう言うと、澪ははち切れそうな鞄を閉めた。カチッと鞄のロックの音が小さくした。
「・・・え? なんで」
そのあまりの軽やかな物言いにうっかり聞き流してしまいそうになったその以外な言葉が引っかかった私は思わず自分でも聞いた事がないくらいの低い声で訊ね返した。澪は間を置かずに、又歌うように答える。
「たくさんの同じような人間の髪の毛だらけの頭がずらっと埋め尽くしている景色が見えるのが、気持ち悪くて仕方なくて。それぞれ違った事を考えてる毛むくじゃらの人間がこんな狭い空間にみっしり詰まっているのが気持ち悪くて。みんな死ね! 消えろ! って、毎日思ってた。それがなくなるだけで、すっごい楽」