蒼き王の譚歌(たんか)
その男は、澄んだ湖面のような蒼い瞳で、ヒューイアスを見返した。
「私の首を討ちに来たんだろう?」
輝く銀の髪に豪奢な黄金の王冠を戴いた、この国の王。
「君を待っていた」
相貌に浮かび上がるのは至上の歓喜。穏やかな声色は子守唄のように柔らかだ。
何故――と、ヒューイアスは思った。
何故、この男はこの場において、これほどまでの喜びに満ちているのだろう。
城外では乱戦が続いている。最後まで王を守り続ける近衛隊と、ミューレン将軍率いる革命軍の激しい剣戟の響きが聞こえる。
だがしかし――。
この部屋の中だけは静謐な空気に包まれていた。
――王宮の侍女だった母が遺した地図。それに記された隠し通路を通り、ヒューイアスは単身この王の居室に来た。それがミューレン将軍の指示だった。
目の前のこの男を斃せば、革命は成る。
王と対峙した瞬間に、右手にした剣を振り下ろすつもりであった。
だが、微笑みを浮かべる王の姿に、ヒューイアスは一歩、後ずさった。
幼い頃に流行り病で母を亡くしたヒューイアスは、孤児院で育った。
親のいない子供など、この国では珍しくもない。母を覚えているだけヒューイアスは良い方だ。彼を慕い、ついて回るシルティアなどは、両親を知らない。
「ヒューイ兄ちゃん、私のパパとママはどこにいるの?」
小さな手でクッキーの生地を丸めながら、シルティアが尋ねてきた。このクッキーは孤児院の生計の一部を担っている。彼女は小さくても立派な働き手だった。もちろん五歳年長のヒューイアスは、畑仕事もすれば家畜の世話もする。
ヒューイアスは返答に詰まった。
彼女がどうして、そんなことを尋ねるのか、彼には心当たりがあった。
修道女(シスター)のお使いで一緒に市場に行ったとき、彼女と同じくらいの年頃の子供を見かけた。子供は右手を父親、左手を母親と繋いでいた。そして「せーの!」という掛け声と共に両親は子供を持ち上げた。子供は高く飛び跳ね、声を上げて楽しそうに笑う――よくある他愛のない光景だ。
シルティアは、ヒューイアスと繋いだ右手をぎゅっと強く握りしめてきた。少し湿った温かさが、彼の心に氷のように突き刺さった。彼女の左手には、小さな買い物袋が握られていた。
――黙り込んでしまったヒューイアスの蒼い瞳を、シルティアが首を傾げて覗き込む。ぎゅっと握られた彼女の手の中の生地は、熱でバターが溶け出し、べとついていた。
シルティアは、捨て子だった。
「……天国だよ」
ヒューイアスは丸めた生地をばんばんと叩き、平らにして天板に並べた。それは隣のクッキーより明らかに大きく薄くなっていた。
「親なんかいなくても、お前には俺という、格好いい兄ちゃんがいるだろ!」
ヒューイアスはシルティアの手から生地を取り上げ、その小さな体を抱き上げた。だが、年長とはいえ、彼だってまだ十歳の子供だ。やっと彼女の足が浮く程度にしかならない。
それでもヒューイアスは、市場で見かけたあの子供のように、シルティアを空高く飛ばせてあげたかった。
突然のことに驚きつつも、はしゃいで笑うシルティア。周りにいた他の子供たちも、わっと駆け寄り、次は自分の番だとせがんできた。
「しゃーねーな、お前ら一列に並べ!」
様子を見に来た修道女(シスター)に叱られるまで、その騒ぎは続いた。
この国は理不尽だと思った。
王族が、貴族が、特権階級の者だけが、明日も同じように日が昇ると信じて暮らせる。
古くからこの国はそうだった。この体制を誰かが変えねば――。
ヒューイアスは、そう思った。
十五の歳を迎え、ヒューイアスは孤児院を出た。
彼は下級兵士になった。
孤児院出身の子供が就ける職など限られている。けれど、理由はそれだけではない。
幼き日に遺された母の言葉――。
「お前がこの国を憂えたなら……王を討ちなさい」
王族しか知りえないような隠し通路が記された、詳細な王宮の地図がこの手にある。
ある日のこと。
この国一の将軍、ミューレン将軍が剣術訓練を見学に来た。
彼はヒューイアスのそばで足を止め、名を尋ねた。
「ヒューイアス」
将軍は太い眉をぴくりとさせた。そして、あとで私室に来るように小声で言った。
私室にて――王の信頼がもっとも篤(あつ)いと言われるミューレン将軍の口から革命の文字が出たのは、衝撃だった。
「俺を貴方の旗下にお加え下さい」
ヒューイアスは膝を折り、銀色の頭を深々と下げた。
そして、地図の存在を将軍に打ち明けた。
それから数年――。
〝時は満ちた〟とミューレン将軍は鬨の声を上げた。
目の前にいるのは血涙を流す国民を顧みなかった、斃すべき王――。
「待っていた、だと? 逃げ場を失って気が狂ったか?」
言いながら、ヒューイアスは疑問に思った。逃げ場はあったではないか。自分が通ってきた隠し通路から脱出できたはずだ。
「気狂(きちが)い、か。そうかも知れない」
口角を上げて王は笑った。清々しさすら感じられる王の声音に、ヒューイアスの剣を握る手がじっとりと汗ばむ。向かってくる敵なら、ためらいもなく斬ることができた。けれど帯剣もしていない王に気圧されていた。
王は静かに告げた。
「なにしろこの革命の首謀者は、ほかならぬ私だからね」
ヒューイアスは、自分の耳を疑った。王の言葉が頭の中に沁み込むまでに長い時間を要した。
「なん、だと……?」
「ミューレンは本当によくやってくれた」
ヒューイアスは手にしていた剣を思わず取り落としそうになった。
順調すぎる革命軍の侵攻。被害はいつも最小限だった。それはミューレン将軍の的確な判断の賜物だと信じていた。
ミューレン将軍は最後のこの作戦において、ヒューイアスが単独で王の居室に赴くように命じた。少数精鋭というなら分かるが、さすがに自分一人だけでというのは腑に落ちなかった。
革命軍に身を投じたときから命など捨てている。だが、自分の不手際で革命が失敗に終わることを恐れた。しかし、ミューレン将軍は「お前がしくじったら正面突破するだけだ」と厳つい手でヒューイアスの肩を思い切り叩いただけだった。
――ここに辿り着くまでの間、ただの一人の兵士にも遭遇しなかった。
「何故、王のお前が革命を企むんだ!?」
「この国の王は熟れすぎた果実だよ。芳(かぐわ)しい実であるためには根となる国民が必要であることを忘れた。いまや朽ちて腐臭を撒き散らすだけの忌むべき存在だ。――私はこの実をもぎ取って、新たなる種を植えたいと思ったのだ」
「俺は無学でね、小難しいことを言われても理解できねぇんだよ」
ヒューイアスは柄(つか)を握る手に力を込めた。
「君だって気づいているだろう? この国は滅亡の一途をたどっている。贅沢し放題の王族、腐敗した貴族、傲慢な特権階級の者たち……そして、国が傾いていくのを止められない無能な王。彼らには舞台から降りてもらうべきだ、そう思わないかい?」
「はっ! そうさ。だから俺はお前を討ちに来た。だが俺が訊きたいのは、何故、王(おまえ)自身が……!」
作品名:蒼き王の譚歌(たんか) 作家名:NaN