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松橋オリザ
松橋オリザ
novelistID. 31570
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立ち読み版 二人のラブミルク

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「ところで、今度インモラル書房から、ピュアマガジン社に配置換えになったイケメン編集者って、独身?」
 このあたりから、二人の話題は別の方向へと向かいだし、口調もずっと明るくなっていた。
「鳥居さんのこと? 独身だって、編集長は言ってたけど」
(確か、僕の新しい編集さん、「鳥居」って言ってた……)
 自分は、鳥居のことを勝手に女性だと思ってたけど、どうやら男性らしい。しかもイケメンのようだ。
「定期移動の時期でもないし……まさか、彼がそのセクハラ犯てこと、ないわよね」
「それはないでしょ。セクハラって、女に相手にされない男がするもんよ。彼なら、女に不自由してないんじゃないの?」
「確かにねえ……」
 彼女らなりに話しがまとまりかけたころ、「カランコロン」とエントランスのカウベルが鳴って、豊田美子が入ってきた。ナイスバディに、白いブラウスがまぶしい。
「あ、豊田さん、こっちです」
 日乃本は小さく手を上げ、たちあがった。
 これが合図のように二人の噂話はピタリと止まった。同時に、背中越しに彼女らの狼狽ぶりが伝わってくる。
「あ、先生! すみません。お待たせして」
 豊田は、ふくよかな色白美人だが、今年三十才だという割には童顔で、ちょっとAV嬢っぽい。たいていの男なら、ソワソワしてしまうだろう。
 日乃本が、結婚適齢期の健康な男にもかかわらず、そんな彼女に胸がときめくことがなかった理由……それは、日乃本がゲイだったからだ。だが、このことは、まだ誰にもカミングアウトしてない。
「いえ、僕も今来たばかりですから」
 日乃本は少し遅れてきた豊田を安心させる様に、笑顔で迎えた。
「あ……」
 見れば、彼女の後ろに長身の男性が立っている。どうやら彼が、自分の新任担当者らしい。女性だと思い込んでいたのは、やはり自分の早とちりだった。
「紹介します。こちらが先生の担当をさせて頂く鳥居です」
「鳥居さん……」 
 女に不自由してなさそう……さっきの二人が話していたとおり、なかなかの好男子だ。いい意味での予備知識をもらったせいで、日乃本はつい笑んでしまう。
「初めまして鳥居です。本来なら、こちらから伺うべきですのに、お呼びだてしてすみません」
 鳥居は、編集者らしいてきぱきした口調で言った。
「先生の今までの作品、読ませて頂きましたよ。臈《ろう》たけた文章と、大人の恋愛が巧みに表現されていて、静かな人気なんですよ」
「はあ……あ、ありがとうございます」
 「静かな人気」というのは都合のいい表現で、まあ「可も無し、不可も無し」ということだろう。
「ふふっ。鳥居は、先生がもっとお年を召していると、思い込んでいたんですよ」
 以前、「年の割に対話が苦手で、特に初対面の人とは、上手く話せない」と話したことを豊田は、覚えていてくれたのかもしれない。女性らしく、さりげなく話題を振ってくれた。
「はい。豊田から、先生の方が一歳年下だと聞かされて、驚きました。それから、男性だったということも。てっきり、女性作家だと思い込んでたもので……」
 一瞬、鳥居は目を見はってから、ふっと白い歯を見せた。どうやら、彼も同じような勘違いをしていたようだ。
「鳥居さんの方が、年上なんですから『先生』なんて呼ばないで下さい」
 何度聞いても「先生」という言葉は、背中がむず痒くなるようで好きではなく、戸惑いは隠せない。 
「結構、そうおっしゃる作家さんは多いんですが……。いえ、ね。電話で、「さん」付けで話していたら、編集長に後から絞られたことがあって……。勝手言ってすみませんが、やはり『先生』ということで……」
 日乃本の言葉に一瞬詰まった鳥居が、気まずさと申し訳なさを滲ませる。
「あ……はあ……そうなんですか」
 はっと息をつき、目を伏せてから小さく口ごもった。
 日乃本も、それほどかたくなにこだわっているわけではない。そんな事情があるなら、無理強いするわけにもいかないだろう。
「あ……これ、書き上げたばかりなんですが……」
 日乃本は、茶封筒に入れられた「二人のラブミルク」を手渡した。
「ありがとうございます。確かに……。後ほど、ゆっくり読ませて頂きます」
 鳥居は、それを恭しく受け取り、足下に置いたカバンにしまい込んだ。
「いらっしゃいませ。何になさいますか?」
 水の入ったグラスを手にした女性店員が、オーダーを聞きにやってきた。
「ホット三つ、お願いします」
「かしこまりました」
 迷わず注文した豊田に、店員もきびきびした仕草で奥に引っ込む。
「先生は、ここのコーヒーがお気に入りなの。スランプの時には、お誘いするといいわ」
 なおも堅さがただよう雰囲気に、豊田はこう言って場を取り持つ。
「そうでしたか。いいこと聞きました」
 鳥居は、とっておきの秘密でも手に入れたみたいに、日乃本を見て目を輝かせた。
「お気遣い、ありがとうございます」
 こんなに持ち上げられるなんて思わなかったので、照れくさい。以前、ここで豊田と会った時、「美味しいですね」と言ったことはある。だけど、「お気に入り」というほど、味にうるさいわけではなく、「喫茶店ならコーヒーだろう」という認識くらいしかない。数回来店するうち雰囲気になじみ、そんな言葉につながったのだろう。
「鳥居は、今月の一日付でここに移動になったばかりの、ほやほやなんですよ」
 豊田はこう言いながら、運ばれてきたコーヒーカップを引き寄せる。
「そ、そうだったんですか。ベテラン編集者みたいな落ち着きがありますね」
 それは、お世辞でも何でもなく、日乃本が素直に感じたことだった。一歳どころか、鳥居の方が五~六才、年上かと思ったくらいだ。
 日乃本は、先ほどの女子社員の話から、彼がここに移動になったばかりだということを知っている。にもかかわらず、初めて知ったみたいに装うのは、複雑な気持ちだった。
「以前は、ピュアマガジン社の子会社であるインモラル書房に、十年居たんです。あ、いい香り」
 鼻を近づけた鳥居の満足そうな表情。そこに、人柄の良さが表れているように思えた。
「やり手編集者として、知らない人がいないくらいにね」
 こう言って、カップに薄く着いた口紅を拭き取る豊田。つい日乃本も、話しに引き込まれていた。
「鳥居さん、やり手なんですか?」
「そりゃあもう、新人だろうがベテランだろうが、歯に衣着せぬダメ出しで、噂はうちの編集部にまで届いていました。有名人気作家にさえ、書き直しさせちゃうくらいだから」
 豊田は日乃本にこう言いながら、肩をすくめた。
(そうなんだ……)
 作家は、よい編集者によって作られるものだ。全ては自分のためだし、いつまでもぬるま湯に浸かってたら、いつまでたっても成長はない。
(建設的なアドバイスをもらえるように、がんばろう……)
 鳥居からは、高圧的な印象は受けなかったものの、背筋がなんとなくシャッキリとする。
「でも、それで、その先生には嫌われましたけどね」
 シュガーポットから、ひとさじ分の砂糖をすくったままで、手を止める鳥居。その知的な瞳に、自嘲めいたものを滲ませている。
「それが、ピュアマガジン社への移動の理由だったりして?」
 豊田はちょっと声を潜め、たたみかける。