即興でなんか書いてみろ@自分への挑戦状1
「そうかもしれないわね」
「なんだそれ、すっごい恥ずかしいぞ」
僕は一目惚れした片想いの少女相手に下の名前で呼ばれ、また名前を聞いてそれを呼び、微笑まれる事を、
無意識のうちに望んでいたというのか?
「そういうことになるんじゃない?」
「思考まで読めるのか……」
「読むというよりは、この言葉は貴方から与えられているわけなんだけれど……」
珍しく戸惑った表情を浮かべるアイ。
「ねぇ、私にも質問させて」
気を取り直すように長めの深呼吸をしてアイは言う。
「貴方の名前はなんていうの?」
返答は、沈黙だった。
正確には黙考する時間が長すぎて、まるで僕が突然木か石かに変身してしまったような気分だった。
「……小さい頃から」
沈黙を破ったのは自分の声だった。
「小さい頃から、自分の名前に違和感があった。
何度呼ばれても、それが自分の名前だという気がしなかった。
自分はなにかの物語の主人公のような気が絶えずしていたし、
そうでない場面に出くわすと、強烈に気分が悪くなった。
小さい頃から僕は僕自身に名前をつけるのが好きだった。
ある時は童話の主人公だったり、漫画の主人公だったり、
ありもしない架空の名前をつけては呼んで、呼ぶ度に違和感が拭えなかった」
そいつの声は、震えていた。傍から見ていると、泣いているように”見えた”。
そこでまた違和感に気が付く。自分を斜め上から見下ろしているこの視線は、一体”誰”なんだ?
自分だと思っていたこいつは誰なんだ?
混乱して地面に手をつく。ふらつきの原因が頭痛なのか、それとも吐き気なのか。
僕は頭を抱え込むようにして抑える。否、抑えているのは目の前の僕で、
斜め上からの視点である僕は微動だにしない。
だだっ広い真っ白の空間が黒く染まっていく。
眼前の天使のようだった少女の姿は、もうどこにもいない。
いるのは眼下の自分と、視点である自分だけ。
不意に眼下の自分がこちらを向く。
笑っているのか……?
その不気味な笑みを浮かべた誰かが僕を見てこう言う。
「 お ま え は だ れ だ 」
ハッとして起き上がると、僕は布団の中にいた。
激しい心拍音が血管を伝って指先で感じる事が出来る。
全身が心臓になった感じがして、枕元へ嘔吐する。
枕元のゴミ箱へ、嘔吐する。
吐瀉物の不快な臭いと酸っぱい味が口の中いっぱいに広がり、
僕はもう、寝られる気がしなかった。
洗面所へ向かい、うがいを二回、三回と繰り返すが、
吐き気は収まりそうも無いし、おまけに口の中の酸っぱいのも無くなる気配がない。
なんだこの地獄は、と呟きながら鏡を見て気づく。
僕はいつの間にか大人になっていて、
いつも死にたがっていたあの頃に、全て外したはずのボタンが、元通りになっていた。
受験のあのピリピリした周囲の気配が嫌いだった。
勉強で成績が思うように伸びずに懊悩するのが嫌いだった。
その成績関連で母親からも父親からも口出しされるのが嫌いだった。
仲の良かったはずの友人と比べて、嫉妬してしまう自分が嫌いだった。
勉強に割かねばならない不自由な時間全てが、大嫌いだった。
だから外した。ひとつひとつ丁寧に。逃げたんだ。やめたんだ。
そうして脱ぎ捨てたはずだったんだ。
「そんなもの大事じゃない!!」
ボタンは全部取っ払って、裸の、自由の自分を手に入れた気持ちになっていた。
だがそれは間違いで、僕はまたこうして服を着ている。
こうしてボタンを一番上まではめている。
途中で掛け違える事も無く、きっちりと。
またどれだけ外したって、僕はまたその下から現れるボタンに絶望するんだ。
あるいはまたボタンを付ける事になるんだ。
「部活動に差し支えるから」と、
友人との関係を捨てた。ボタンを一つ外す。
「上達の妨げになるから」と、
遊戯をする時間を捨てた。ボタンを一つ外す。
「受験の邪魔になるから」と、
部活動をやめた。ボタンを一つ外す。
「私立に通う金は無いからと、
僕は受験を諦めた。ボタンを一つ外す。
捨てた。やめた。諦めた。僕は、諦めた。……諦めたんだ!
自由になろうとして、必死になって脱ぎ捨てた。
欲しい物を手に入れるためには立派にならなくちゃならない。
立派になるためには、良い学校に行かなくちゃならない。
良い学校に行くためには、良い生活を送らなきゃならない。
良い生活を送るためには、友人を大切にし、部活動を頑張り、
家族との関係を大切にし、年上に敬意を払い、
毎日毎日毎日毎日、一生懸命生きなきゃならない。
目の前の鏡にヒビが入る。
――そうじゃなかったんだ。
僕が脱ぎ捨ててきたのは、自由を阻害する『枷』なんかじゃなかった。
『自由』だった。
『自由』そのものだった。
「どうすれば良かったんだ!!」
それは絶叫と呼ぶに相応しかった。
眼前の鏡が砕け散る。鏡の破片が周囲に散らばる。
白くだだっ広い空間で、男が一人、泣いている。
この広い空間には何もない。
”大切なモノ”がなにもない。
それが過去にあった事はあるのかもしれないけれど、
今は影も形も無い。全部捨ててしまった。
”本当に価値あるもの”のために捨ててしまった。
”立派であるはずの未来”のために捨ててしまった。
大切なモノがなにかもわからないまま。
そうして得られた広く白く、虚しい空間だった。
ただ幻想の少女が、そっと男を抱きしめるのだ。
何も言わず、慈愛の目でそいつを見下ろしている。
反復される頭を撫でる動きが、男を慰めるものだとはわかっていても、
僕にはそれが獣にするもののように思えてならない。
たとえば人が猫を撫でる時のように、対等からの行為ではなく、
一方的な、強者からの、悪意なき見下しから生じる愛情。
それに近いものを感じた。
怒りは無い。
ただ、そこに実感がある気がした。
そこに確かな実感が、あった。
僕は獣だ。人じゃない。人ほど高尚じゃない。
故に人のように振舞っていいはずがない。
”命に相応しくない”
「なぁアイ。ひとつ聞いてくれないか」
「なぁに、どうしたの?」
「僕の名前を、まだ名乗っていなかったよね?」
「うん、まだ聞いていないわ」
淡々と、超然と。それゆえに美し過ぎる想像上の少女に向かって、僕は言う。
「僕をジンと呼んでくれ」
「ジン……」
「僕は、人間になりたい」
「人間に?」
からかうように、少女は繰り返す。
「まっとうな人間になりたい。
立派じゃなくてもいい。
頭が良くなくてもいい。
絵の才能がなくても、
文章を書く才能がなくてもいい」
「うん、うん」
少女の透き通る瞳を見つめながら、僕は気が付く。
これは、母親の目だ、と。
幼い、とても幼い頃に見た、大好きだった頃の母親の目と同じだ、と。
「僕は僕自身を誇れる人間になりたい」
言い切った。
今まで一言だって言えなかった言葉。
言えないが故に、渇望して仕方の無かった言葉。
傍から見れば滑稽で、なにを言ってるんだって馬鹿にされるような、どうしようもない告白。
それを――、
「わかった」
アイはにっこりと笑って、僕を抱きしめた。
僕は耐えられなくなって、泣いた。
わんわん泣いた。
後頭部に感じる少女の手が、少女の撫でる手が温かくて泣いた。
作品名:即興でなんか書いてみろ@自分への挑戦状1 作家名:ふまさきはじめ