聞く子の(むかしの)約束
第5章 なんだか涙が出そう
水炊き鍋が運び込まれて、座卓の中央に置かれた。仲居が大き目のお猪口を私たちに手渡した。お酒のお猪口ではない。鍋に満たされた白い鶏ガラスープを試飲するためだ。
そのお猪口に大きなレンゲで、スープが注がれた。そこに塩を一つまみ。それを一口飲んで、
「これこれ、この味」
「本当。堪らないわね」
「前、二人で来た時、キクちゃん飛び出るほど大きな目をして、『おいしいー』って叫んでたよね」
「おいしいー! もう、そんな初々しさはないから」
「あら、いつ頃来られたんですか?」
「25年も前ですよ」
「あー。何かいい思い出があるんですね」
仲居は何か勘繰って、それ以上は聞かなかった。
ビールを酌み交わし、鶏を食べ、卒業式以降の人生について報告し合った。
キクちゃんは、普通の主婦が話しているように、時には真顔で、時には眉間にしわを寄せて話した。記憶にあるいつものニコニコ顔ではなかった。でも、私の話を聞いている時は、ニコニコしてくれた。
彼女も昔を懐かしんでいるのか、それとも思わず昔に返っているのか、それは分からない。
「子供さんは?」
「一人息子がテニスやってて、アメリカでプロ目指してるのよ」
「ええ? やっぱりすごいな。今何歳?」
「十九歳になったとこ」
「大学には行かせないのですか?」
「あと少しテニスやって納得したら、カリフォルニアの大学を受けるって言ってるけど、本当はプロ目指してる彼女を、追っかけて行っただけみたいなの」
「ある意味の行動力すごいですね」
「もう、何考えてるんだか」
「うちの一人娘は、ピアノ習ってますけど、ほとんど遊びですよ」
「私もピアノ下手だったから」
「そう言えば、一度も聴かせてくれなかったですよね」
「聴かせられるほどの腕じゃないのに、ヒロ君しつこかったわよね」
「僕、弾けるようになりましたよ」
「習ったの?」
「はい。四十超えてから」
「なんだったっけ、“別れの曲”?」
「弾けます」
「へえ、あんな難易度の曲を」
「中学の頃からの憧れの曲でしたから」
「そうか、初志貫徹する性格だものね」
「結構、意志は弱いですけど」
作品名:聞く子の(むかしの)約束 作家名:亨利(ヘンリー)