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平凡の裏側

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惑い

     
「マー君、違うでしょ、『パパ』じゃなくて『おじちゃま』でしょ」
「いいさいいさ、『じいじ』じゃ困るけどな」
 
 信子は、幼児がパパ! と叫んだ瞬間、その声から逃れるように、その場を去った。そして、商店街の人混みをただひたすら早足に歩いたことだけ覚えている。だが、それからどうやって家にたどり着いたかわからない。そして今、茫然とリビングのソファーにもたれている。いつのまにか、あたりはすっかり暗くなっていた。
 今は何も考えないことにしよう……
 やっと、そんな気持ちになり、部屋の灯りをつけ、着替えるために寝室に向かった。普段着にエプロン姿になった信子は、キッチンへ戻ると冷蔵庫を開け、夕食の支度に取りかかった。そこへ、梨央が帰ってきた。
「ただいまー、ああお腹すいた! お母さん、今日の晩ご飯は何?」
「梨央の大好きなハンバーグよ」
「わー、早く食べたーい!」
 信子は、天真爛漫な娘に心が洗われていくような気がした。今日は何もなかった、私は何も見なかった、どこまでそんな偽りが自分の中で通用するかわからないが、娘のためにもこれまでと変わらず過ごしていくしかないと思った。
 
 その夜、帰宅する夫を出迎えるのが、信子はためらわれた。子どもたちの前で取り乱し、激しくののしる自分を思い浮かべると、空恐ろしい。
 そして、その時がやってきた。冷静に、いつもと変わりなく、と自分に言い聞かせて玄関のドアを開けた。そこに立っている夫はいつも通りの柔和な笑顔で、
「ただいま」
と言った。
 それからは、子どもたちも加わっていつもの団らんが始まった。昼間のことがまるで嘘のように、夜は更けていった。
 寝室で夫婦二人きりになっても、信子は昼間のことには触れなかった。いや、触れられなかった。何を聞いても耐えられる準備ができていない今は、心に何かが突き刺さったような状態でも耐えていくしかないのだろう。
 
 
 それから一週間ほどたった平日の昼下がり、信子は学生時代の親友とコーヒーショップにいた。あれだけの重荷を一人で抱え続けることに耐えかねて、清水典子に聞いてもらおうと思い彼女を呼び出した。こんな話をできるのは彼女しかいなかった。
 典子は信子の話に聞き入った。
「そう……それで、その後のことはわからないんだ?」
「もう、私、何が何だかわからなくなって、とにかくその場を離れたい一心で……」
「気持ちはわかるけど、それでは、もしかしたら、ただ道を尋ねただけとも言えるんじゃない?」
「道を?」
「そうよ、子どもが飛びついたと言っても、そんな小さい子なら男の人を見ると誰にでもそうするかもしれないじゃない? あるいはパパに感じが似てたとか」
「そうね、そうだわね。そんなこと思いもつかなかったわ、私はてっきり……」
「きっと直前に、余所に子どもができた友だちの旦那の話を聞いたから、そう思い込んじゃったんじゃない?」
「そうね、あまりにもタイミングが良すぎたのね。テンコに話してよかった、絶望的な状況から光明が見えた気がするわ」
「でもね、シンコ。水を差すようなことを言うようだけど、世の中っていろいろなことがあるから、何事にも耐えられるような心の強さを持つことは必要だと思うわ」
「え、じゃ、やっぱり、主人には何かあると?」
「いろいろな可能性が考えられるってことよ。ただ、どんな結末を迎えてもいいと思えるまでは、絶対に藪を突いてはだめよ。覆水盆に返らず、だから」
「テンコのところは平和だからそんなこと言っていられるのよ。胸の奥に突き刺さったあの光景、グレーゾーンとは言え、本当に忘れられる日が来るのかしらって思うわ」
「シンコ、私にだっていろいろあるのよ」
「いろいろって、まさかご主人に女の人はいないでしょ?」
「主人にいるかどうかはわからないわ」
「それどういう意味?」
「こっちが訳ありってこと」

作品名:平凡の裏側 作家名:鏡湖