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平凡の裏側

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揺らぎ

     
 都心のオフィス街、その中に建つビルに、浅井照之が勤める会社があった。十階建てのビルの五階フロアー、二十人ほどが机を並べる部屋の一画に、照之のデスクがあった。そこで営業報告書に目を通している照之に、前の席の岡野悦子が声をかけてきた。
「課長、そろそろ研修会の時間ですよ」
「おお、そうだな」
 この会社では福利厚生の一環として、週に一度、講習会など自己育成を目的とした早退を推し進めていた。と言っても、どのような使い方をするかという申請は形式的なもので、報告書の提出の必要はない。営業課長である照之は課員が取りやすいように、率先してその制度を利用していた。周りに、それじゃ、お先に、と声をかけ、照之は社を後にした。
 
 
 一方、信子はその日、梨央の幼稚園時代のママ友たちと、久しぶりに食事会を楽しんでいた。繁華街のオシャレなその店は、そんないくつかのグループで満席だった。
 子育て現役時代は、幼い子どもたちに振り回されてばかりいたが、すっかり手が離れた今は、自分たちが主役だ。信子を入れて六人グループの誰もが、きれいにメークをし、今風の装いに身を包み、華やかな雰囲気の中に、日常とは違う空気を満喫していた。
 
「今頃、旦那はスーツ姿で働いているかと思うと、ちょっと悪い気がするわね」
「そんなことないわよ。今まで子育てでがんばってきたんですもの。これからはその分を取りもどさなくちゃ」
「そうよ、奥さんが綺麗というのは旦那の勲章よ。もっと磨きをかけなくちゃ」
 勝手なことを言っていると思いつつも、信子もその輪の中で他愛ない会話を楽しんでいた。こんなことでストレス解消できるのだから、女なんて可愛いものだと思う。
「そうそう、門田さんのこと聞いた?」
「ああ、ご主人に女ができて家を出て行ったっていう話ね」
「なんでも子どもまでいたそうよ」
「ええ! そうなの! ひどい話ね。奥さんショックでしょうね」
「家にこもって外へ出なくなったらしいわ」
「わかるわー、奥さんの気持ち……でも、咲ちゃんが大変ね、お母さんがそんなじゃ……」
「あの子はしっかりしているから、家事を代わりにやって学校へもちゃんと行っているって話よ」
「そう、偉いわね」
「そんなことにならないように、女をさぼらず、旦那の行動には目を光らせていなくちゃね」
「そうね。妻の座に胡坐をかいていてはダメってことよね」
 
 信子は初めて聞いた話だった。まさかそんなことが身近に起こるなんて……門田の妻の気持ちを思うと居たたまれなかった。
 でも、そんな話はほんの一部で、ほとんどは賑やかな楽しい話題で時は過ぎて行った。そしてお開きになり、外へ出たところで、ひとりのママ友が、驚いた様子で信子に言った。
「あれ、浅井さんのご主人じゃない?」
 そのママ友の視線の先を見ると、たしかにそれは照之だった。
「外回りの途中なんだわ、きっと」
「まあ、すごい偶然ね」
「今日の浅井さん、とても素敵だからご主人に見せていらっしゃいよ」
「そうそう。外で見る妻っていうのも、新鮮だと思うわよ」
「ついでに、ディナーなんか、おねだりしちゃったら?」
「そうよ、それがいいわ」
「じゃあ、ここで解散にしましょう」
 みんな勝手なことを言って、信子を残して帰って行った。
 
 みんなの後姿を見送ると、信子は慌てて照之の後を追った。
 たしかに、今日は気合を入れてきた。久しぶりに女同士が集まる機会というのは、どうしても力が入る。ママ友の言う通り、いつもと違うこの姿を見せて、夫の反応を見てみたいと思った。
 商店街のずっと先を歩く夫を見失わないように、小走りで後を追った。夕方の商店街は夕食の買い物客や、学校帰りの学生たちで混み合っている。その中を夫はどんどん先に進み、やがて、商店街を抜け住宅街に出た。
 こんなところに取引先があるのだろうか? ふと、信子の頭に疑念が走った。女の勘だろうか、それとも、さっき聞いた門田夫婦の話の影響だろうか、信子の足が鈍りだした。
 そして、夫が曲がった曲がり角を覗いた時だった。四十才くらいの女性と向き合っている夫の姿が目に入った。すると次の瞬間、ひとりの幼児が駆け出してきて夫に飛びついた。
「パパ!」
と叫びながら。

作品名:平凡の裏側 作家名:鏡湖