平凡の裏側
雪解け
それから十年の時が流れた。
照之にもう一つの居場所があることが信子に知られた後、話し合いの末、照之は菜穂子の元へと去って行った。
子どもは照之の子ではなかったが、生まれた時から照之を父のように慕っていた。まだ小学生だったその子を見捨てられない照之は、そちらの家庭を守ることを選んだ。
あれから十年、六十七歳を迎えた照之はようやくその子を成人させ、肩の荷を下ろすことができた。
一方、信子は慰謝料としてもらったかつての家で、隼人や梨央と三人、穏やかな毎日を送っていた。夫に逃げられ、三十と三十七になる独身の子どもたちと暮らす自分を、人は不幸だと思うかもしれない。が、実は違うのだ。三人にとってこの暮らしはこの上ない快適なものだった。
十五年前、家族で行った湘南の海。あの時はこんな未来が待っているなんて想像もできなかった。たしかにそこには幸せな家庭が存在していた。でも、あの時すでに、照之は普通の夫ではなかったのだ。そう思うと、傍から見た幸福な家庭なんて簡単に演じることができるものだということになる。
その点今は違う。本当に心が通じ合った者だけで作られた家庭はなんと居心地のいいものだろう。安心して心から安らげる空間がそこにはある。世間からどう見えようと、信子はこの暮らしに満足していた。
しかしそんなある日、信子が心臓疾患であっけなく急死してしまった。葬儀に駆けつけた友人や親せきたちも、あまりに突然のことに驚き、みな口をそろえて、本人にとっても長患いするよりはよかったと、残された兄妹を慰めた。
知らせを聞いて駆けつけた清水典子は、信子の遺影の前で長い間、何かを話しかけていた。そして、通夜の席で典子は兄妹と、故人の思い出をしみじみと語りあった。
「信子とは本当に長い付き合いだったわ。お互いシンコ、テンコと呼び合って」
「そうか、名前を音読みで読んだんですね」
梨央が母の若い頃を想像しながら言った。
「ええ、最初はふざけて呼び始めたんだけど、そのままになってしまって」
「いいですよね、そういうのって。いかにも幼なじみって感じで」
隼人が、いい友人に最期を見送ってもらえた母は幸せだっただろう、と思いながら言った。
「今日、お父さんをお見かけしたけど、十年前は大変だったわね」
「ええ、もう、離婚しているのですから知らせるか迷ったんですが、一応知らせたんです。そうしたら来てくれて」
梨央は切なそうな表情で言った。
「あの時は私が余計なことをしてしまったのではないかと思うと、本当に信子には申し訳なくて……」
力無げにうつむく典子に、隼人が言った。
「母から聞きました。真実を知った時はショックで典子さんを恨んだけど、冷静になって思ったそうです。典子さんに救われたと」
初めて聞く話だった。あれ以来、信子とは音信不通になってしまっていた。今年こそは会って話したい、そう思いつついつのまにか歳月は流れてしまった。訃報を聞いた時、そんな優柔不断さをどんなに悔やんだことか。
「母は言っていました。典子さんがあの嘘の情報を伝えてくれなかったら、本当に興信所で調べていたそうです。そうしたら、すぐに真実は明るみに出て、まだ中学生の梨央を巻き込むことになり、難しい年頃の梨央をどんなに傷つけることになったかと思うと、ぞっとすると。それに離婚しようにも、ふたりの子を養う経済力もなく、地獄の家庭生活を続けていただろうとも」
典子は、改めて信子の遺影の方を見つめ、涙を浮かべた。
「ただ、しばらくは典子さんとは距離を置きたいと。時が経って、心の傷が癒えたら、また以前のようにおしゃべりしたいと言っていました。
優しい嘘をありがとう、そう言える日を母は待っていたと思います」
典子は、ハンカチで涙をぬぐった。
「何か困ったことがあったら、いつでも連絡してね」
そう言って典子は帰って行った。