平凡の裏側
恋の迷路 その二
大学でも、バレンタイン旋風は吹き荒れていた。ただし、中高生とは違い、チョコレートが飛び交うわけではない。
食堂で、隼人は友人の亮太とコーヒーを飲んでいた。
「隼人、また面倒な時期がやってきたな」
浮かない顔で亮太が言った。
「お前はいいよな、あっちこっちからお声がかかって。俺なんか毎年静かなもんだよ」
「俺もこの時期は嫌だよ」
「それって、俺みたいな立場の奴には嫌味に聞こえるぜ」
「本当だから仕方ないさ」
さえない表情の隼人を見て、亮太は言った。
「モテル奴にもそれなりの悩みがあるってことか」
バレンタインの日、隼人は、優木ミチルと水原麻耶のふたりからパーティーの招待メールが届いていた。どちらにも、断りのメールをいれたが、二人からはまるでその返事を読まなかったかのように待っていると返ってきた。
「お前、どっちに参加するんだ?」
隼人は驚いて亮太を見た。
「何の話だ?」
「とぼけんなよ、優木と水原両方から誘われているんだろう?」
「何で知ってるんだ?」
「みんな知ってるさ。水原はお前を連れて来ればパーティーに特別招待するからと、取り巻きの連中に言っているらしいぜ。そのうち、お前はそいつらに追い回されることになるだろうよ」
隼人は一層暗い表情になった。
「でも、ホントお前ってすげーよな。わが大学の三大美女、橘、優木、水原、またの名を三大将軍たちを戦わせて、戦国時代さながらになっているんだからな。もっとも、去年の学園祭で無視されたことで、橘はへそを曲げて勝負から下りたそうだが」
「そんなの知らねえよ」
「さすが信長、気が短いって評判だぜ。残るは家康の優木と秀吉の水原だな。親衛隊を使って落とそうとするあたり、人たらしの秀吉の異名を取るだけのことがあるよな水原は。家康の優木としてはどんな作戦に出るのかな?」
「本当に知らねえって」
隼人はうんざりした様子で席を立った。
「ほら、噂をすれば、だ」
男子学生の集団がこちらに向かって来るのを見て亮太が言った。
「早く行けよ」
隼人は小走りで食堂を後にした。
学生たちをまいて、門を出ると、一台のタクシーが止まった。後部座席のドアが開き、優木ミチルが顔を出した。
「浅井君、乗って!」
無視して通り過ぎようとする隼人にミチルが言った。
「後ろを見てみなさいよ」
振り返ると、まいたはずの男子学生たちが近づいてきていた。隼人は仕方なくタクシーに乗り込み、最寄りの駅を告げた。
「まあ、いいわ。五分もあれば話せることだから」
そう微笑んで、ミチルは話し始めた。
「浅井君、バレンタインの夜、水原さんにも誘われているんでしょ?」
隼人は黙っていた。
「それじゃ、どちらも断るわけよね。今回は水原さんの方に行ってあげたら? でもせっかく、私もイルミネーションの素敵な場所を予約してあるから、妹さんだけでも連れて行ってあげるわ。去年の学園祭にかわいい妹さんを連れてきたんですってね。今、話題の場所だから、きっと妹さん喜ぶと思うわよ。ね、聞くだけでも聞いてみて」
次の日の食堂で、また隼人と亮太は顔を合わせていた。
「お前、昨日あれから大変だったんだってな」
「何でも知ってるんだな」
「例の親衛隊の奴らが、お前が家康と逃げたと騒いでいたそうだからさ。ところで、家康はどんな作戦で来た?」
「俺の代わりに妹を誘うとさ」
「なるほど、そう来たか。わきから攻めてじっくりと待つって戦法だな。まさに、泣くまで待とうホトトギスか。それで、お前、どうする気だ?」
「妹と墓参りに行くことにした」
「何だって?」
亮太は素っ頓狂な声を上げた。
「母の妹の命日なんだ、ちょうど。母がその日都合がつかなくなって、今年は俺たちふたりで行くことになった。ちょっと遠いんで丸一日かかると思う」
「バレンタインに墓参りかよ……よくわからないけど、そう言われたんじゃあの二人も諦めるしかないだろうな。これで、戦国時代も終わるかもしれないな」
バレンタインの土曜の朝早く、隼人と梨央はそろって家を出た。長い道中だったが、ふたりで過ごす小旅行のようなひとときは楽しく、あっという間に時間は過ぎていった。
ふたりが訪れた墓は、隼人の母の妹、そして、梨央の実の母である生田妙子の墓だった。隼人は幼い頃、その叔母に会っているが、かすかな記憶しかない。優しそうな叔母だった気がする。懸命に墓石を磨き、花を供える梨央の姿に、
(梨央、お前の本当のお母さんなんだよ)
そう心の中で呟いた。
帰り道、田舎のバス停で一時間もバスを待つはめになったが、そんな時間だってふたりでいれば苦になるはずがない。やがて来たバスに乗り駅前に着くと、一軒しかない昔ながらの食堂で、ラーメンをすすった。そして、ひなびた駅のホームで当分はやって来ない上り電車を待った。
広い空がどこまでも広がり、線路端には名前も知らない小さな花が咲いている。ようやくきた電車に乗ると、疲れたのだろう、しばらくして梨央は隼人の肩にもたれて眠ってしまった。肩にもたれかかる感触を隼人はこの上なくいとおしいと感じた。
車窓から見渡す田園風景はのどかで美しく、今年のバレンタインデーは、隼人にとって今までで最も素晴らしく、思い出深いものになった。
そしてできることなら、このままふたりでどこか遠くへ行ってしまいたい、そんな想いに駆られるのだった。