国王の契約花嫁~最初で最後の恋~
「嫌なら良いのよ、他を当たるから」
最後の一押しをしてみる。むろん、他に頼れるところなんて、あるはずもないのだから、これはハッタリというヤツだ。どこまでも貴族の令嬢らしからぬふるまいだけれど、これも生きてゆくためには致し方ない。
カンが小さく息を吐いた。
「頼み事をするには横柄な態度だな。それが人に物を頼むときの態度か?」
「嫌なら別に無理にとは言わないから」
去ろうとすると、慌てた声が追いかけてきた。
「判った、私の家で良ければ、気が済むだけいると良い」
とりあえず、身を寄せる場所は確保できたと、ファソンは胸を撫で下ろしたのだった。
「ねえ、何で、あなたがここに用があるの?」
先刻から幾度、同じ問いを繰り返したことか。ファソンは今、王宮の正門前に立っていた。もちろん、古書店の前でカンと再会し、ここまで連れられてきたのである。
「まあ、良いから」
その度に、カンは同じ応えしかくれない。ファソンは昨日の彼との会話を懸命に思い出そうとした。確か彼は国王殿下に仕えていると話していたのではなかったか。どう見ても、王の側近のようには見えず、下手をすれば任官さえしていない極楽とんぼに見えたものだが―。官吏だという話は真実だったのかもしれない。
線も細い優男にしか見えない彼もやはり男なのだと判った。ファソンが脚を踏ん張ってみても、彼は楽々とファソンの手を掴み、半ば引っ張るようにして正門をくぐり王宮内の敷地をどこに行くものか、早足で歩いてゆく。
明らかに官服を纏っているわけでもないのに、門を守る衛兵は彼を見ても咎め立てもしないし、少し進んで殿舎が見える辺りまで来ると、お仕着せを纏った女官たちともすれ違うようになるが、彼女たちも皆、一様にカンを不審者扱いはしなかった。―どころか、カンをまともに見ようともせず、面を伏せてそそくさと通り過ぎてゆくばかりだ。
「何なの? あなた、一体、何者―」
ファソンは言いかけ、はたと思い当たった。
「まさか、あなた、王族とか言わないわよね、カン」
そのときだった。少し離れた前方から、小柄な老人が小走りに駆けてくるのが眼に入った。
「国王殿下、殿下〜」
ファソンは小首を傾げた。あの小柄な老人は今、何と言った?
茫然としている彼女をよそに、老人はカンの前で止まった。相当に急いだものか、気の毒なほど呼吸が荒い。
「何だ、爺。何かあったのか?」
?爺?と呼ばれた老人は濃い緑のお仕着せを着ていた。どうやら、内官(宦官)のようである。
老内官はジロリとファソンを一瞥し、次いで、ファソンの手をしっかりと握っているカンの手に移った。
「殿下、今までどこにおいでになられていたのですか! 本日の午後は大切なご用があると爺があれほどまでに申し上げましたのに」
と、どこか恨めしげな眼でファソンまで見られ、彼女は慌てて視線をあらぬ方に逸らした。
どうも、この気まずいやりとりに巻き込まれたくない。だが、そうは問屋が卸さないようで、老いた内官はファソンをあからさまに訝しむ眼で見て言った。
「この娘は何者ですか?」
そこで、カンは破顔した。
「ファソンいう名だ。金尚宮に預けようと思うので、後で後宮まで案内してやってくれ」
事もなげに言われ、内官は顔を引きつらせた。
「チ、殿下。今がどのようなときなのか、ご自覚はおありなのですか? 今は殿下のご伴侶となるべき中殿さまを決めるべく、国中の両班の子女に禁婚令を出して花嫁捜しをしている大切な時期なのですぞ!」
どこか蛙に似た滑稽な面相がひくひくと震えている。カンがファソンを連れ帰ったのがよほどショックだったに相違ない。
「あ、あの」
今更ながら、ファソンも漸く自分がとんでもないところに連れてこられたという自覚が芽生えていた。聞き間違いでなければ、この国で?国王殿下?と呼ばれるのはただ一人のはず。
ファソンは恐る恐るカン―とつい今までは気安く呼んでいた男を見た。カンは笑顔で内官と向き合っている。突然の事態に大いに狼狽えている内官とは対照的だ。
「そんなことは言われなくても判っている。ただ、私は何度も言ったはずだ。まだ当分、妃を迎えるつもりはないと。こたびの禁婚令にしても、母上が勝手に大臣たちと諮ってなしたことで、私は賛同した憶えはない」
「しかし、このような時期に殿下おん自ら見初めたおなごを後宮にお納れになるというのは、いかにも外聞が悪うございます」
「―!」
今度はファソンが蒼くなる番だ。冗談ではない、父の言うがままに顔も見ない男と見合いをさせられるのも嫌だが、王の後宮に入るだなんて、もっと嫌に決まっている。
「カ、カン。私、後宮になんて」
入るつもりはないと言いかけ、内官にきつい視線で睨まれた。カンは笑いながら言った。
「勘違いしてくれるな、爺。この者は妃にするつもりで連れてきたのではない。しばらくの間、身の置き所が必要だと申すゆえ、身を隠すには後宮が丁度良いと思っただけだ」
「なるほど、さようでございましたか。いえ、殿下、爺は別に殿下ご自身が望まれた娘なら、異を唱えるつもりはありません。むしろ、女嫌いとさえ風評が立つ殿下にはご側室の一人でもいた方がよろしいかと存じます」
さりながら、この娘は少し不調法で、殿下のお側に侍るにはふさわしからぬとも思えますが。
余計なお世話だと言いたいひと言を付け加えるのも忘れない。まったく、口の減らない年寄りだ。ファソンはイーとあかんべえをしてやったものの、内官は目ざとく見つけて逆ににらみ返されてしまった。
「それにしても、身を隠すなどとは、穏やかではありませんな。娘、一体、何を良からぬことをしでかしたのだ?」
カンに対するのとは裏腹の尊大な口調に応える気にもなれず、ファソンはプイと横を向いた。祖父と孫ほど歳の離れた二人のいがみ合いをカンは傍らから興味深そうに眺めている。
「最近の若い者は、どういう躾をされているのだ」
内官はぶつくさと零しながら、カンに一礼してキム尚宮という女性を呼びに行った。
「カン」
呼びかけ、ファソンは怖々と言った。
「もしかしなくても、あなたは国王さまなのよね?」
カンがにっこりと綺麗な顔に微笑を浮かべた。
「ごめん。騙すつもりはなかったんだけど、結果としては君に嘘をつくことになったね」
「いえ、まだ信じられなくて、夢を見ているようだけれど」
ファソンは呟き、頬をつねった。ツと顔をしかめ、陸(おか)から上がった犬が水飛沫を飛ばすように、勢いよく首を振る。
「ああ、どうやら夢ではないみたいね。これは現実だわ」
カンは堪え切れないというように笑い出した。
「そなたはつくづく変わっているというか、面白い女だな」
ファソンはハッと我に返ると、神妙な顔つきで両手を組んで眼の高さまで掲げた。地面であることも頓着せず、手を組んだまま座り込み深々と頭を下げる。また立ち上がり、同じ動作を二度繰り返した。貴人に対する敬意を表す拝礼である。
カンは呆気に取られ、拝礼するファソンを見つめていた。
「ファソン?」
ファソンは拝礼を終え、更にもう一度軽く頭を下げた。
作品名:国王の契約花嫁~最初で最後の恋~ 作家名:東 めぐみ