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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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「そんな手荷物一つ下げて、恐らくは家出でもしてきたつもりだろうが、止めときなよ。ファソンのような世間知らずのお嬢さんが一人で生きてゆけるほど、漢陽は甘くはないぞ。今の中にさっさと屋敷に戻りなさい。悪いことは言わん」
 ファソンはがっくりと肩を落とし、古書店を出た。いつもは優しいガントクにぴゃしりとやられ、自分の甘さと世間知らずさを突きつけられたようだ。
「ここで使って貰えると信じていたから、他には何も考えてなかった」
 涙が零れそうになるのをまたたきで堪える。と、正面をよく見ていなかったたせいで、小道を向こうからくる人とまともに体当たりした。
「痛っ」
 向こうが悲鳴を上げるのに、ファソンも負けずに声を上げていた。
「あら」
 何と衝突したのは、またしてもあの若い男、イ・カンであった。つくづく腐れ縁というか、ぶつかる縁のある二人である。
「そなたはファソンではないか」
 カンも相当愕いているようである。
「私たち、いつもぶつかってばかりいるわね」
「それもそうだ。初めての出逢いもそうだったからな」
 昨日の出来事を思い出したのか、カンは笑った。ファソンは彼に再会して、また身体が例の得体の知れない熱を帯びてくるのを自覚した。昨日は屋敷に戻るなり、慌てふためくチェジンに出迎えられ父に?見合い?を告げられ、到底、カンを思い出す余裕もなかった。
 それでも、彼に昨日、貰った菫青石(アイオライト)の簪はちゃんと髪に挿してある。
「そなたも?さんのところに?」
 ということは、彼も本屋に用があったのだろう。ファソンは淡く微笑んだ。
「用事はもう済んじゃったみたい」
 じゃあ、と、小さな声で言い歩き出す。数歩あるいたところで、カンが追いかけてきた。
「待ってくれよ、まったく、つれないな。折角、奇遇にも再会できたのに」
「ごめんなさい、今、私はそれどころではないのよ」
 唯一の仕事の当てが外れてしまったからには、別の仕事を探さなければならない。暇な両班の若さまの相手をしている時間はないのだ。
 カンもファソンの元気のないのに気付いたらしい。
「どうした? 何か元気ないな。私で良ければ、力になるよ」
 ファソンはカンを見上げた。今日は淡い青色の上等なパジを纏っている。帽子に垂れ下がっているのはやはり衣装に合わせているようで、蒼玉(サファイア)だろう。そんな風には見えないが、もしかしたら、人の眼を気にする伊達男なのかもしれない。
 そういう意味では、ファソンの好むような類の男ではない。
 洗練された端正な風貌の貴公子ではあるけれど、彼の雰囲気からは世慣れない若さまといったものが漂っている。仕事探しには間違っても役に立ってくれそうにはない。それでも申し出てくれた彼の親切は嬉しかったので、素直に礼を言った。
「ありがとう。でも、良いの。自分で何とかするから」
 ファソンは微笑み、また踵を返そうとした。
「待てよ」
 と、今度は行く手を塞ぐように前方に立つ。いささか強引なその態度に、ファソンはムッとして彼を睨んだ。
「何なの? 私はこれから行くところ、やらなければならないことがたくさんあるんだから、邪魔しないで」
「どこに行くんだ?」
 何故かしつこく追及してくる男に、ファソンは良い加減焦れてきた。
「どこでも良いでしょ。あなたには関係ないことよ」
「いや、それが関係あるんだ」
 ここでカンはそれまでの強気な態度が嘘のように態度を軟化させた。最初からやや下がり気味の綺麗に弧を描いた眉も心なしか下がっている。彼自身、本当に困惑しているといった体だ。
「どうして、私がこれから行くところとカンに関係があるの?」
 これも素朴な疑問をそのまま口に出せば、カンはますます眉尻を下げた。
「そなたのことが忘れられなかった。確かに?本の虫?と呼ばれるだけあって、少し世の常の女とは変わっているようではあるが」
 最後のひと言は余計だ。ファソンはムッとした。
「そう、変わり者で悪かったわね。そんな変わり者のことなんて、さっさと忘れれば良いでしょ」
 そのまま去ろうとしたところで、腕を掴まれた。
「待ってくれ」
「ああ、だから一体、何なの、何が言いたいの」
 ファソンはもどかしげに叫んだ。
「何度も言うように、私はこれから仕事探しをしなければならないのよ。あなたの訳の判らない理屈に付き合っている暇はないの!」
 だが、カンは大真面目に言った。
「そなたといると胸がドキドキする。こんな気持ちは初めてなんだ、その気持ちが何なのか突き止めたい」
 いきなり握りしめた自分の手を彼の心臓辺りに持っていかれ、硬直した。確かにカンの鼓動は速いようではある。ファソンはその瞬間、彼に初めて出逢った―昨日の出来事を思い出した。彼にじいっと見つめられると、ファソンもまたいつになく鼓動が跳ねたり身体が熱くなったりして、初めての体験に戸惑った。
 彼が当惑しているのは、昨日、自分が体験したのと似ているのだろうか。だが、と、そこで思考は現実に戻った。
 自分は彼にも告げたように、これから職探しに奔走しなければならない身だ。ファソンとしても昨日、感じた得体の知れない熱について原因を突き止めてみたい気はするが、ここは仕事を見つける方を優先しなければならない。
 カンはファソンの小さな手を握りしめたまま、放そうともしない。ずっと彼の大きな手に握りしめられている中に、ファソンの方までまた身体が熱くなり胸の動悸が速くなってきた。
「いつまでやっているつもり? 放して」
 それでも放そうとせず、ますます彼女の手を握る手に力をこめる。ファソンは大きな声で言った。
「放して、この変態、助平男」
 カンが切れ長の双眸をまたたかせる。
「酷い言い様だな。さりながら、他人から変態とか助平とか言われたのは生まれて初めてだ」
 妙な感慨を抱いているらしいカンは、やはりどこか常人と感覚がズレているように思える。ファソンは内心、溜息をつきたい気持ちになった。
「あなた、やっぱり変よ」
 当人を前に?変人?とまでは言えず、言葉だけは適当に濁したものの、女だてらに難しげな漢籍をすらすらと読みこなすファソンも変わり者なら、この浮世離れした若者も相当の変わり者といえよう。
「教えてくれ、ファソン。この訳の判らぬ胸の高鳴りの正体は一体何なのだ?」
 真顔で問われても、応えられるはずがない。しかし、そこでファソンの中で閃くものがあった。
「そうね」
 勿体ぶって思案に耽るふりをして見せる。
「私も一緒に考えてあげても良いけど、条件があるわ」
「条件?」
 果たして人の良いお坊ちゃんは眼を輝かせて身を乗り出してくる。世間知らずの若さまを騙しているような罪悪感がちらと走ったが、家出が成功するかどうかのこの瞬間、手段を選んではいられない。
「少しの間、匿ってくれたら、あなたの気まぐれに付き合ってあげても良いわよ」
「匿うとは?」
 ファソンの言葉の意味が本当に理解できなかったのだろう。カンは首を傾げた。
「あなたのお屋敷の片隅で良いの。私を置いて貰えないかしら。もちろん、下働きの女中でも何でも、贅沢は言わないわ」
「うむ」
 カンはしばらく考え込んだ。ファソンは息を呑んで彼の様子を見守る。