小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

INDEX|5ページ/32ページ|

次のページ前のページ
 

「サムジョンはそなたの父御が王妃の選考試験にそなたを応募させるつもりでいると申していたが」
「そんなのはただの噂よ。大体、私にそのつもりはまったくないんだから。幾ら父でも、私にその気持ちがないのに、そんな横暴なことはしないわ」
「そう―だな」
 カンがどこか落胆したように言い、ふと視線を動かした。
「ちょっと待ってて」
 大通りを隔てた斜向かいの露店に近づいてゆく。どうやら小間物を扱っているらしいその店の主人としばらくやり取りした後、彼はほどなく器用に人混みを縫って戻ってきた。
「これを君に」
 カンの男にしては細くて綺麗な長い指が束の間、ファソンの黒髪に触れた。今日のファソンの装いは全体を明るい色合いで纏めている。やや濃いめの桃色のチョゴリ、ごく淡い色の萌葱のチマだ。チマは下に殆ど白に近い薄緑色の地に木春菊を大胆に手書きしており、その上に薄い緑の紗をふんわりと重ねている。
 二枚重ねになったチマがさながら咲き誇る大輪の八重の花びらを思わせる華やかな装いだ。
 そろそろ日中は気温が高くなってきたこの季節にはふさわしい、涼しげな色合いがファソンの初々しい美少女ぶりによく似合っている。
 まだ未婚なので、長い黒檀の髪は背後で一つに編んで垂らしている。牡丹色の髪飾りが飾られているのも愛らしい。
 カンがその艶やかな髪に飾ったのは、菫青石(アイオライト)の簪(ピニヨ)だった。愛らしい蒼色の小鳥を象った玉(ぎよく)がついている。
「?本の虫?なんて気にすることはない。そなたが私に言ってくれた言葉をそのまま返そう。君は自分がしたいようにすれば良いんだ。今に、女性が難しい本を読んでも誰にも何も言わせないような国を私はきっと作る。だから、ファソンはずっと変わらないで、そのままの君でいてくれ」
 それに、と、カンは笑った。
「?本の虫?を妻に迎えたいと願う変わり者の男もこの広い世の中にはいるかもしれないよ? 何より、ファソンは可愛いし綺麗だ。美しく咲き誇る花に吸い寄せられるように魅了される鳥がおらぬはずがない」
 丁度、そなたの髪に飾ったこの小鳥のようにね。
 カンはひそやかに笑んだ。
「カン、私、こんなものを頂くわけには」
 彼とは町の本屋で知り合っただけで、?イ・カン?という名しか知らない。まだ互いのことをろくに知りもしないのに、簪を贈られて受け取れるはずもない。
「良いんだ。これはファソンが私に勇気をくれたお礼だ」
「私がカンに勇気を上げた?」
 彼の言葉をそのままなぞったファソンに、カンが大きく頷いた。
「誰が何を言おうと気にしないで、自分の好きなことをすれば良いと言ってくれた。ファソン、だからといって私はもちろん本来の自分の仕事をおろそかにするつもりはない。けれど、その傍ら、?春香伝?の続きを書いてみようと今日、はっきりと決意したよ。これもファソンのお陰だ」
「カンはもう任官しているのね?」
「ああ、どこの部署にいるかまでは話せないけどね」
 ファソンは微笑んだ。
「私はてっきり、カンはまだ任官していないのかと思ったの」
「親のすねかじり息子だと思った?」
 問われ、まさかそのとおりだとも言えず、ファソンは紅くなってうつむいた。
「だって、あまり仕事をしているようには見えなかったんだもの」
 カンが嘆息した。
「私はつくづく君には頼りない男のように見えているらしい」
 ファソンは狼狽えた。
「そういうわけではないのよ。でも、そのう、あなたって武官には到底見えないし。強いていえば文官のタイプだけど」
 言葉を濁したファソンに、カンがすかさず言った。
「よくも言ったな、?本の虫?め」
「ふふっ、これでお相子ね」
 二人は顔を見合わせて吹き出した。
 流石に長い初夏の陽もそろそろ傾きかけている。結局、ファソンは屋敷の近くまでカンに送って貰い、彼とはそこで別れた。
 五月の空は淡い夜の気配に覆われ、そこここに薄墨を溶き流したような宵闇が垂れ込め始めている。昼間は夏を思わせるほど気温が上がるが、流石にこの刻限は吹く風にも幾分冷たさが混じる。
 ファソンは屋敷の門に脚を踏み入れる間際、つと背後を振り返った。カンとはここからはかなり離れた場所で別れたのだから、今、眼の届く距離に彼がいるはずもない。それでも、振り返らずにはいられなかったのは何故なのか。
 いつになく火照った頬を傍らを過ぎゆく夜風が快く冷やしてくれる。生まれて初めて経験した?熱?の理由をこの時、ファソンはまだ知らなかった。
 そして、そんな彼女の運命を激変させる出来事が屋敷内で待ち受けているとも知らずに。 

  突然の見合いと家出

 お忍びで町に出たファソンがこっそりと自室に戻るのはいつものことだ。そこに側仕えの女中チェジンが色を様変えてやって来た。
「お嬢さま(アガツシ)、夕刻までにはお戻りになるとおっしゃっていたのに、今まで、どこでどうなさっていたのですか! あたしはもう、旦那さまと奥さまからきついお叱りを受けましたよ」
 チェジンが恨めしげな表情で訴える。チェジンは亡くなった乳母の娘だ。チェジンの母はファソンが生まれた直後から七歳のときまでまめやかに仕えてくれたが、病で亡くなって久しい。乳母には二人の娘がいて、チェジンはファソンと同年だ。上の娘は既に他の両班家に仕える下僕に嫁している。
「ごめんね。古本屋で友達に逢って長話してたら、遅くなって」
 忍びで外出している間は、大抵、チェジンが上手く言い繕ってくれている。今日は頭が痛いから昼寝をしているということになっていたのだけれど―。確かに、昼寝にしては長すぎたかもしれない。
「とにかく、一刻も早く旦那さま(ナーリ)のお部屋にお行きになって下さいまし」
 チェジンの声に急かされるように、ファソンは父ミョンソの居室に赴いた。室の前で右手のひらを胸に添え、深呼吸する。
「父上(アボニム)、ファソンです」
「入りなさい」
 そこには当然というべきか、父だけでなく母ヨンオクも揃っていた。ファソンは手のひらを胸に添えたまま軽く一礼し、殊勝な顔つきで二人の少し下手に座った。
「その分では、自分がしでかしたことの愚かさは重々承知しているようだな」
 父が重々しく言い、父から少し離れて座る母がすかさず口を出した。
「一体、いつになったら幼い童のように屋敷を抜け出し、ほっつき歩く癖が治るのかしらね」
 が、父は片手を上げて母を制し、お喋りな母は不満そうに口を閉じた。
「あの、そのことでは私がチェジンに無理に頼み込んだことでもあり、チェジンへのお叱りはこれ以上は止めて頂きたいと―」
 言いかけたファソンに、母が声を尖らせた。
「主(あるじ)の行いを側にいて諫められぬのは、側仕えが責めを負うべきことです。ソジがよく長年仕えてくれたゆえ、これまでは大目に見て参ったが、今度、そなたが黙って屋敷を抜け出すのに荷担致せば、チェジンを鞭打つことになりますよ」
「まあ、ヨンオク。今はその話は良いだろう。大体、チェジンはこの娘に無理矢理頼み込まれ、仕方なしに協力させられたのは判っている。鞭打つならば使用人ではなく、この娘の方が先だ」
 父は柳眉を逆立てる母を宥め、ファソンには一転して厳しい表情を向けた。