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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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 国政を司る議政府の三丞承(チヨンスン)の第三位、それが右議政である。カンが幾ら名家の子息でも、その三丞承に立ち向かえるほどの立場にあるはずもなく、下手をすれば右議政に睨まれて失脚する危険もある。
「君は心配するな、ここは僕に任せて」
 カンは安心させるようにファソンに微笑みかけた。どこか頼りなげな坊ちゃん然とした雰囲気から、一転して頼もしげな毅然とした表情に変わる。何故か胸の鼓動がまた速くなり、ファソンは身体が熱くなった。
 今日の自分はどうもおかしい。今まで、こんなに身体が熱くなるのは珍しい書物を手に入れたときだけだったのに。
「そなたは先ほど、国王の女の趣味がどうこうとか申していたが」
 カンは淡々と言った。サムジョンが下卑た笑いを浮かべ、したり顔で言った。
「殿下も所詮は若い男だ。こんな小難しい本にしか興味のない色気なしの乳臭い小娘など、好まれるはずがない」
「さて、それはどうだろう。王に逢ったこともないそなたが何故、国王の女の趣味が判るのだ? 私は殿下のお側近くお仕えしておるゆえ、殿下の女性の好みはよく知っているが、殿下は触れなば落ちんの色香ある女よりは、清楚な娘をお好みになると聞いているぞ」
 事もなげに言ったカンに、サムジョンはせせら笑った。
「フン、どうせ負け惜しみで、口から出任せを申しておるのだろう。貴様のような者が畏れ多くも殿下のお側近くに仕えるなど信じられぬ」
 カンがその端正な顔に不敵な笑みを刷いた。
「そうか。そう思うのなら、そう思えば良い。金サムジョン、そなたの名はしかと憶えておく。せいぜい親父どのの名前に泥を塗らぬように注意するんだな」 
 ファソンは生きた心地もせずに二人を見守っている。サムジョンは武官だ。サムジョン、カン共に上背はあるが、筋骨逞しいという点では、はるかにサムジョンが優位に見える。
「くそっ」
 我慢鳴らず、カンに殴りかかろうとしたサムジョンの巨体がつんのめった。
「うおっ」
 獣の断末魔のような声を上げ、サムジョンはあっさりと道端に転がった。カンが片脚を出して、掴みかかってくるサムジョンに足払いをかけたのだ。
「くそぅ、貴様」
 サムジョンが起き上がる直前、カンがファソンの手を握った。
「これは流石にまずいな。逃げよう」
 二人は脱兎のごとく駆け出した。
「待てっ、貴様ら」
 もちろん、待ってやるはずもなく、二人は駆けに駆けた。
 とりあえずは大丈夫そうなところまで来て、カンは漸く脚を止めた。
「ここまで来れば、あやつも追いかけてこないだろう」
 二人共に相当、息が上がっている。
「カン、無謀なことをしないで。サムジョンは頭の方はからきしだけど、見てのとおり、武芸はかなりのものなのよ。何しろ、武官なんだから。あなたがまともに立ち向かって勝てる相手じゃないわ」
「失礼な女だな。それでは私がいかにも弱々しい男みたいではないか」
「みたい、じゃなくて。弱いでしょ。力仕事なんて、まともにしたこともない細い腕をしている癖に、あの筋肉の塊のようなサムジョンとどうやって喧嘩するのよ?」
「うっ」
 カンは顔を紅くし、言葉を詰まらせた。
「それに、あんなハッタリを口にしては駄目よ」
「ハッタリ?」
 訝しげなカンに、ファソンは笑った。
「そう、あなたが畏れ多くも国王殿下の側近だなんて。サムジョンじゃなくても誰も信じないわ」
「ええと、そなたは」
 言いかけた彼に、ファソンは笑顔で告げた。
「ファソンよ」
「そうだ、ファソン。何ゆえ、そのように言い切れるのだ! 私が殿下の学友だというのは嘘ではない」
「あなたが殿下のご学友ですって?」
 ファソンは堪え切れず笑い始め、その笑いはしばらく止むことはなかった。
「つくづく失礼なヤツだ。私は相当傷ついたぞ」
 ファソンはやっと笑いを納めた。あまりに笑い転げたため、涙眼になっている。
「ごめんなさい。でも、やっぱり信じられない」
 また笑いそうになるのを堪え、ファソンは言った。
「サムジョンって、昔から性格が変わらないのよね。もっとも、傲慢で女好きで最低な男だけど、根はそこまで悪くないの」
 ファソンとサムジョンの腐れ縁は物心つく前からのことだ。そこで、彼女は幼い頃の意外な想い出を語った。
 サムジョンには乳母がいて、乳母にはギルボクという息子がいた。サムジョンの母親は二つ違いで生まれた弟の方を溺愛していたため、彼は乳母を本当の母のように慕っていた。サムジョンは半年違いで生まれたギルボクを実の弟よりも可愛がっていたものだ。
 ある日、サムジョンが自邸で同じような両班家の子ども数人と遊んでいたところ、ギルボクが通り掛かった。悪童の中の一人がギルボクを心ない言葉でからかうと、サムジョンは烈火のように怒り友達を殴った。
 事後、サムジョンは母親からは鞭で打たれ、父親からも延々と説教された。その時、彼は父に向かって広言した。
―ギルボクは確かに身分は低い。ですが、私にとっては大切な乳兄弟です。その大切な身内に等しい者を蔑まれて見過ごしにはできません。
 最後まで謝らなかった息子に、両親は呆れ果てたという。けれど、その話を父から聞かされたファソンはサムジョンを子ども心に見直したものだった。
 ギルボクは乳兄弟とはいえ、使用人であった。その使用人を身を挺して庇ったサムジョンは立派だと思った。
「なるほど。確かに、その行いは見上げたものだな。身分が低いからと、人を訳もなく辱めて良いわけがない。ファソン、この国は王族や両班といった特権階級だけで成り立っているわけではないからね。国の根本は民だ。民の存在なくして国は成り立たない。名も無きたくさんの民こそが、朝鮮の宝なんだよ」
「凄いわ、カン。あなたの言うとおりよ。カンがもし本当に国王殿下のご学友だったら良かったのにね」
 ファソンは笑った。
「それでも、あなたもいずれ官僚となって、この国の未来を担うのは間違いないでしょうし、今の気持ちを忘れないでね」
「さりながら、私は通俗小説を隠れて書いているような男だ」
 どこか自嘲するような物言いに、ファソンは真顔で首を振る。
「カン、両班だから、小説を書いてはいけないなんて、それも世の中がおかしいのよ。女が政を語ってはならない、男が恋愛小説を書いてならない。誰が決めたのかしら。あなたはそんな小さなことを気にせず、あなたの生きたいように生きれば良いと思うわ。?春香伝?の続きを書きたければ書けば良い」
「ファソン―」
 カンが愕きに眼を見開く。ファソンは少し照れたように言った。
「熱く語り過ぎたみたい。私も女だからと父からいつも言われているから―。難しい書物ばかり読んでないで、刺繍や伽耶琴(カヤグム)の練習をもっとやりなさいとかね。だから、小説を書きたくても思うように書けないあなたの立場が少しだけ理解できるような気がしたのかもしれないわ」
 ファソンの口調が少し淋しげなものになった。
「サムジョンの言うことは満更、嘘じゃないの。私は両親や親戚から?本の虫?って呼ばれてる。こんな私を妻にと望んでくれる男はいないでしょう。もっとも、私自身は一生、嫁がずに本を読んでいる方が良いのだけれど」
 カンが言うとはなしに言った。