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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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 母は三十代後半とは思えないほど、若々しく美しい。こうして華やかに装っていれば、適齢期の娘を持つ母親には見えないだろう。しかも、母はファソンを生むときに相当な難産で、生んだのは娘一人だった。母の関心はいつでも一人娘に注がれている。
 親の愛情を知らない子どもには贅沢すぎる話かもしれないが、幾つになっても干渉してくる母の小言は正直、あまりありがたくないものだ。
「まあ、それはそうですけど」
 ヨンオクは不承不承言った。父はおもむろに腕組みをした後、唐突に切り出した。
「明日、見合いだ」
「え?」
 ファソンは大きな黒い瞳を見開いた。
「相手はさる名家の若君だ。心して支度を整えるように」
 父の言葉はどうやら、もう決定事項らしい。
「そんな、お父さま、あまりに急すぎるのでは」
 父はゆっくりと首を振る。
「そんなことはない。明日とはいかにも急に聞こえるかもしれぬが、実のところ、かなり前から内々に話を進めていたのだ」
「―」
 話の急展開についてゆけず、ファソンは言葉を失った。
「あなたは何も心配することはないのよ、ファソン。お父さまがすべて良きように運んで下さいますからね」
 傍らから母が言い添えるのに、父ももう止め立てはしなかった。
 ややあって、ファソンは父を見上げた。
「お父さま、仮にも見合いするのは私なのに、お相手の方のお名前さえ教えて頂けないのですか?」
「これは正式な見合いではない。その方と内々に対面するというのも外部に洩れてはならんのだ」
「そこまで外聞をはばかる方というのも」
 ファソンがまた黙り込むと、父が宥めるよように言う。
「ヨンオクの言うとおりだ。そなたは何も案ずるには及ばぬ。縁談というのは時と運が決めるものだし、互いの相性もあろう。万に一つ、相手の方とそなたがあい合わぬとなれば、この縁談をごり押しもできぬ。そのために、正式な対面の前に内輪にてお逢いするのだ。ゆえに、そなたも気遣う必要なく、嫌ならば嫌と申して良いのだぞ」
 つまりは相手の評判や名に無用の傷を付けないために、正式な見合いとなる前に内々に対面の場を設けて相性を見ようということか。
「それでしたら」
 頷きかけた時、母がすかさず言った。
「大監(テーガン)、そのような甘いことを仰せになって良いのですか? この縁談をお断りするなんて、到底考えられないのではなくて?」
「そういうわけにはゆかぬだろう。結婚というものはある程度、互いに合う合わぬもある。合わぬ者同士を無理に娶せたとて、不幸の因を作るだけではないか」
「とは申しましても」
 不服そうな母に、父は不機嫌な声で言った。
「良い加減にしなさい。家門も大切だが、まずいちばんに考えるべきは娘の幸せではないか」
「それはそうですけど」
 母の綺麗な面には
―父上はファソンに甘い。
 と、はっきり書いてある。そして、ファソンは若く美しい母にそっくりだ。性格はどちらかというと父に似ているのに、外見は母の容貌をそのまま受け継いでいる。いつまでも若い母と並ぶと、母娘というよりは姉妹にしか見えないというのも、娘としては考えものではある。
「話は終わった。もう室に戻りなさい」
「はい、お父さま」
 ファソンは両親にまた頭を下げて室を出た。
 両開きの扉を閉める寸前、憤懣やる方ないといった母の言葉が聞こえた。
「大監はあの娘に甘過ぎます。あんなことを仰せになって、ファソンが嫌だと言い出したら、いかがなさるおつもり? 今度のお相手は我が家からお断りできるようなお方ではないでしょうに」
 父が何か言う前に、ファソンは急ぎ室の前を離れた。到底、両親の会話を聞いていられなかった。
 母の頭には陳家の隆盛しかないのだ。娘の幸せなど、二の次なのかもしれない。
 自分の部屋に戻ると、チェジンが待ち受けていた。
「やはり、きついお叱りを受けられたのですか?」
 お茶を淹れてくれながら、そんなことを訊いてくる。ファソンは座椅子(ポリヨ)に座り、だらしなく脇息にもたれた。どうも力尽きた感がある。
「見合いをしろと言われたわ」
「お見合い、ですか」
 素っ頓狂な声を出すチェジンを、ファソンは軽く睨んだ。
「申し訳ございません」
 チェジンが肩を竦めるのに、ファソンは苦笑する。
「良いわよ、当の私だって、青天の霹靂だったんだから」
 ファソンが文机の上に青磁の湯飲みを置く。それを手に取り、彼女はひと口味わうように口に含んだ。
「チェジンの淹れてくれるお茶も当分、飲めそうにないわね」
「え?」
 チェジンに訝しげに見つめられ、ファソンは曖昧に笑った。
「何でもないの。チェジン、私だけじゃないわ。あなたもそろそろ嫁いでも良い年頃よ。良い縁談をお母さまがいずれ下さると思うから、必ず良い男を見つけて幸せにならなければ駄目よ」
「お嬢さま。あたしのことは良いです。そりゃ、あたしもいつかは分相応な男の許に嫁いで家庭を持ちたいって想いはありますけど、まずはお嬢さまがお幸せにならなくては」
「チェジン」
 ファソンはチェジンの両手を自分の手のひらで包み込んだ。両班の令嬢のファソンと異なり、日々の仕事でチェジンの手は荒れている。それでもまだお嬢さま付きの上女中であるチェジンは下働きと違い、仕事は楽な方である。
 これが下働きともなれば、どのような苛酷な仕事をこなさねばならないのか、お嬢さま育ちのファソンには想像も及ばないことだ。
 そんな気随気儘な日々に甘んじていて、それでも逃げ出すというのがどれだけ我が儘なことか自覚はあった。けれど。ファソンはどうしても母の言葉が気に掛かっていた。
―この縁談をお断りするなんて、到底考えられないのではなくて?
―今度のお相手は我が家からお断りできるようなお方ではないでしょうに。
 何故、母はあのようなことを言ったのか?
 常識的に考えれば、見合いの相手がこちらから断っては無礼に当たる―そういう相手だということだ。それほどの身分ある若君というのは、一体、どこの誰なのだろう。議政府に領議政がおらぬ今、その筆頭に立つのは父陳ガントクに他ならない。飛ぶ鳥を落とす勢いの左議政の娘が断れないほどの相手となれば、同じ両班家ではそうそうはいない。
 もしかしたら、王族かもしれない。とにかく、と、ファソンは考える。このまま大人しく見合いなどするつもりはさらさらない。両親には申し訳ないけれど、ファソンは明日の見合いに出る気は既にこの時、なかったのである。

 ファソンが屋敷を抜け出したのは、その翌朝早々であった。これまでも度々、屋敷を抜け出したという前科があるものの、その都度、側仕えのチェジンの協力があった。が、今回ばかりはチェジンも母によくよく言い含められていたと見え、
―明日は絶対に絶対に駄目ですよ、お嬢さま。
 と、念を押してきた。むろん、チェジンに協力して貰うつもりはなかった。むしろ、この忠実で人の好い乳姉妹を自分の家出にまで巻き込みだけはすまいと思っていた。
 屋敷の者たちが―早起きの使用人たちでさえ眠っている時刻、ファソンは身の回りの荷物を風呂敷に少々と路銀になりそうな金子を持ち、屋敷の塀を軽々と乗り越えて逃亡した。