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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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「え、ええ。そうね」
 ファソンはまだ早鐘を打つ胸の鼓動をなだめるの必死で、まるで上の空で応える。
 会話が途絶えたところで、遠慮がちに割って入った者がいた。
「話がお弾みのところ、申し訳ないんですがね。朴氏の若さま(トルニム)」
 身の丈がさして高くない中年の男、彼がこの古本屋を営む?ガントクである。
「若さまがお書きになっている例の小説、少し拝見してもよろしいですかね?」
「ああ、良かったら、見てくれ」
 ガントクはしばらく真剣な面持ちで若者から渡された小説を読んでいた。ややあってから、自慢の口ひげを撫でて若者に言う。
「なかなかですな。これは売れるかもしれませんよ」
「そうなのか?」
「ええ。春香伝の人気は今、うなぎ登りですからね。大きな声じゃ申し上げられませんが、若さまのように両班家の方々の中にも、ご夫人やご令嬢だけでなく、れきとした殿方が熱心に読みふけっておられる方は少なくないのです。その今や大人気の?春香伝?に続きが出たとなれば、こりゃ売れるのは間違いないと、儂は踏んでますがね」
 ガントクはいっそう声を潜めた。
「どうですか、この作品をお書き上げになったら、儂に預けて下さいませんか?」
「私の書いた?続春香伝?をこの書店で売ってくれるというのか!」
「さようです」
 ガントクの頼もしい返事に、若者の白い面に血が上る。
「それは願ってもない話だ。何とぞ、よしなに頼む」
「合点でさ」
 本屋の主は胸を叩いて請け合った。売れるか売れないか―、この道二十年の目ききのガントクが言うからには目算はかなりの確率であるのだろう。
 ファソンと若者はそれぞれ本の代金を払い、本屋を後にした。いちおう古本屋、貸本屋ということになってはいるが、もちろん新しい本も売っている。
「毎度ありがとうございます」
 ガントクの愛想の良い声に見送られた後、二人は何となくそのまま並んで通りを歩いた。ガントクはファソンの父がそも誰であるかを知っている。同様に?朴氏の若さま?と呼んでいた彼の素性をも知っているのかもしれない。
 が、ファソンはこの青年にそれを訊ねようとはしなかった。大体、彼の物腰や身なりを見れば、彼が高位の両班であることは丸分かりだし、ファソンはファソンで身許をあまり知られたくはない。特に父には内緒で巷の古書店に通っているなんて知られたら、それこそ屋敷に閉じ込められて二度とお忍びでの外出はできなくなる。
 そんな危険を冒す愚はしたくない。
 この本屋の良いところは大通りから外れた小路に面しているのもある。つまり、出入りしているのもそれだけ人に見られる可能性も低いということだ。二人は直に小路から大通りに出た。流石に人通りが多く、たくさんの人が忙しない足取りで往来を行き交っている。
 往来の両脇にはあまたの露店が軒を連ね、通りすがりの人々が熱心に店の品物を検分している。それに混じって客を呼び込む商人の声が声高に聞こえる。いつもながらの活気に溢れた下町の光景がひろがっていた。
 青年がやや名残惜しさを感じさせるように言った。
「そなたの屋敷はどこだ? 送っていこう」
「ありがとう。でも、私なら大丈夫だから」
 ファソンが言い終わらない中に、彼らの間前に突如としてヌッと現れた人影があった。
「陳ファソン、こんな場所で逢えるとは、つくづく奇遇だな。やはり、俺たちは縁があるのか」
 近づいてきた男を見て、ファソンは両班家の息女にはおよそ似つかわしくない悪態を心でついた。
「あら、金氏の若さま。今日もまた相変わらず嫌みがお上手ね」
 つかつかとやって来た若い男は険のある眼でファソンとその傍らに立つ青年を交互に見た。
「俺の許婚者と他の男が昼間からよろしくやっているとは、これはどういうことかな、ファソン?」
 この男、金サムジョンという。右議政の嫡男で、父親が政府の高官なのを鼻にかけて傍若無人なふるまいが眼に余る。妓房で女遊びに狂うは酒色に溺れるはで、その放蕩ぶりはつとに知られている。
 こんな男ではあるが、ファソンにとっては幼い頃からの知り合いなのだ。子どもの時分から、このいけ好かない性格は変わらない。
 男ぶりはそこそこなのだけれど、何しろ性格がそれを上回って有り余るほど悪いのが難点である。
「お生憎さま、私はあなたと婚約した憶えなんて、金輪際ありませんけど」
 確かにサムジョンが父を通して結婚を申し込んできたのは知っている。けれど、その縁談はその時、父がきっぱりと断ったはずだ。
 なのに、この道楽息子ときたら、
―陳氏の娘と婚約した。
 などと真っ赤な嘘偽りを触れ回っているらしい。父も嫁入り前の娘のこととて外聞をははばかるゆえ、事実無根の話を触れ回るのは止めて欲しいと、右議政に苦情を申し入れたが、どうやら、息子に甘すぎる右議政は止めさせた風はない。
 現在、領議政の地位は例外的に空席になっている。ファソンの父陳明瑞(ミヨンソ)は左議政の要職にあり、右議政とは若い頃からの盟友でもあり飲み友達でもあった。政治的なライバル以前に、二人の絆は強い。父もサムジョンにはあまり強く出られない立場ということもある。
 ああ、と、サムジョンがもっともらしく頷いた。
「そういえば、そなたの父御がここのところ、そなたを後宮に上げる気になったとか。確かに、願い出れば妃候補の一次選考試験にはまだ間に合うかもしれんが、お若い国王殿下がそなたのような跳ねっ返り、おまけに?本の虫?に興味を示されるとは思えんがな」
「私は後宮に上がるつもりもありませんから。誰にも嫁がず、本に埋もれて暮らすわ!」
 ファソンがつんと顎を反らすと、サムジョンが鼻で嗤った。
「そういうわけにもゆかんのは、お前も判っているだろうが。嫁き遅れと人の噂が立つ前に、この俺が妻に貰い受けてやろうというのだ。ありがたく受けろ」
「冗談でしょ。後宮に閉じ込められるのもご免だけど、あなたと同じ屋敷に住むのはもっとご免だわ」
「何だと」
 流石に気色ばんだサムジョンの前に、それまでずっと二人のやり取りを聞いていた例の朴氏の息子が立った。彼は背後のファソンを庇うように立ち、サムジョンをおもむろに見つめた。
「何なんだ、貴様」
「私は朴家の縁戚の者だ」
 サムジョンが唾棄するように言い放った。
「朴なんて姓はこの都中だけでも掃いて棄てるほどある。どこの朴か、俺は知らんぞ」
「どこの朴氏ゆかりの者かを私自身もそなたに告げるつもりはない。さりながら、名乗らぬ卑怯者にはなりたくないゆえ、先に名乗ろう。私の名前は李幹(イ・カン)だ」
 サムジョンがゲラゲラと笑い出した。癇に触る笑い声だ。
「なるほど、ありふれた名前だ。俺は金サムジョン、父は右議政をしている」
「国の重責を担うだけあって、流石に右相大監(ウサンテーガン)は道理を心得られた方だが、その子息がこの程度とは大監もお気の毒なことだ」
 イ・カンと名乗った青年は静かな声音で断じた。
「き、貴様ッ。この俺にそんな口を叩いて無事で済むと思うのかっ」
 激高するサムジョンを見、ファソンはカンの袖を引いた。
「カン。もう、止めて。あなたのお父さまもそれなりの地位をお持ちでしょうけど、ああ見えても、サムジョンの父親は右議政なのよ」