国王の契約花嫁~最初で最後の恋~
「王室には一日も早い世継ぎの誕生が必要だ。私にとって大切なのは王室の存続なのだ。はっきりと申せば、主上の世継ぎを生む女が誰であれ、構いはしない。世継ぎが生まれることの方が重要だと考えている。それが、そなたが聞きたがった問いに対する私の応えだ」
―大妃さまは私が主上さま(サンガンマーマ)のお側にいるのはご反対ではなかったのですか?
ファソンは大妃にそう訊ねた。つまりは、何ゆえ、ああまで頑なに嫁とは認めぬと言い張っていた態度を一転させたのか? その理由を今、大妃はくれたのだった。
何と変わり身の早いというか、思考の切り替えの鮮やかなことか。いっそ小気味良いとさえ思える大妃の態度に感心もするし呆れもする。だが、それが後宮の女として、あまたの女たちの頂点に立つ中殿として生き抜いた大妃が身に付けた処世術であるのかもしれなかった。
大妃に続いて馬尚宮も退出する。去り際、ファソンに付いてきた尚宮やチェジンがいまだにファソンの側に控えているのに対し、大妃がたしなめた。
「気の利かぬことだ。さっさとそなたらも出てゆかぬか!」
大妃の叱声に、尚宮とチェジンが慌てふためいて部屋を出ていった。
二人きりになった室内は、何とも気まずい沈黙が漂った。これ以上の沈黙には耐えられない。ファソンはカンに一礼し、室を出ようとした。
「―ファソン」
背後から、カンの苦悩に満ちた声が追いかけてくる。
「昨日はごめん。そなたが私の側からいなくなると聞いて、カッとなってしまった」
ファソンは務めて平静を装った。
「私なら平気よ。それに、後宮の女は王の女ですもの。あなたはいつでも後宮の女を好きなようにできる唯一の男でしょう。だから、私を抱いたのよね。私はそれに文句を言える立場ではないわ」
「それは違う! ファソン、聞いてくれ。私は本当にそなたを」
ファソンはカンの言葉に覆い被せるように言い放った。
「聞きたくないの。あなたは私に逢いもしない中から、私を嫌っていたわ。まだ見たことのない?中殿?に対して、物凄く冷淡だった。今更、それを聞かなかったことにはできないし、あなただって気にならないはずはないでしょう。よく考えてみたら、きっとこれで良かったと思うときが来る。だから、私はあなたの側から姿を消すの」
「私は確かに、左議政の娘を疎ましく思っていた。勝手に決められた中殿など要らないとも思った。それを否定はしない。だが、そなたと共に過ごした日々も確かに存在したはずだ。誰よりも愛しいと思い、誰よりも側にいて欲しいと願った―私が初めて愛した女がそなたであったことも事実なのだ」
ファソンは扉を開けた。カンの声がわずかに震えた。
「それでも、そなたは否定するというのか? 私とそなたの間に必ずあったはずの感情まで、無かったものにできると?」
ファソンは未練を振り切るように扉を後ろ手で閉めた。振り向きもしなかった。
振り向けば、カンに取り縋ってしまいそうだったから。泣いて彼に訴えてしまいそうで、怖かったのだ。
―私とあなたの間にあった、あの愉しかった日々を無かったことなんて、できるはずがないじゃない。
私は今でも、あなたを愛しているのよ。でも、一度、あなたに嫌われたという事実をどうしても乗り越えることができないの。もし、あなたがいつかまた私に飽きるときが来たら、私はどうすれば良いの?
あなたにいつか嫌われるくらいなら、いっそのこと今、想い出が綺麗な中に、あなたの側から姿を消した方が良い。そう思ったの。私らしくない意気地なしな生き方だとは思うけど。
ファソンは泣きながら階を駆け下りた。
庭で待っていた年配の尚宮とチェジンが愕いて駆け寄ってくる。
「お嬢さま?」
チェジンの気遣わしげな声も耳に入らず、ファソンは涙を流し、殿舎までの道のりを力ない足取りで辿った。
翌朝、ファソンは宮殿ではなく、陳家の屋敷にいた。昨夜、ついに後宮を去り、実家に戻ってきたのである。
突如として帰宅した娘を父ミョンソは黙って出迎えた。後宮を去った理由について問いただすこともなかった。
今、ファソンの前には開いた扉の向こう、庭がひろがっている。七月上旬の庭には紫陽花が至る所に群れ咲いていた。
今朝、目覚めてから見るとはなしにボウと庭を眺めている。
そろそろ長い梅雨も明ける。紫陽花の花期の終わりが近づいたということだ。ここのところの晴天続きで、蒼色に染め上がった紫陽花も心なしか元気なく、うなだれているように見えた。
「もう梅雨も明けたのかしらね」
聞き慣れた声が聞こえ、ファソンは緩慢な動作で顔を上げた。母ヨンオクが側に立っている。
「こう雨が降らないと、折角の紫陽花も萎れてしまうわ」
ヨンオクはファソンの隣に座った。
「少し話しても良いかしら」
母に言われ、ファソンは小さく頷いた。
「昔話をするわね」
母は淡々と話し始めた。
「大昔のことよ、私には好きな男がいたの」
ファソンの視線がチラリと動いた。
「それって、お父さまのことよね、お母さま」
と、ヨンオクは声を潜めた。
「それが違うのよ」
「―!」
ファソンは眼を瞠った。
「ここだけの話だけどね。嫁ぐ前に、好きな男がいたの」
「その男はどんな人だったの?」
貞淑そのものの両班の奥方だと信じて疑っていなかった母にそのような過去があったとは。俄に信じられず、ファソンはまた興味も引かれた。
母が遠い瞳になった。その視線は紫陽花に向けられているようでもあり、遠いはるかな過去に向けられているようでもあり、定かではない。
「実家の下僕だったわ」
「そう、だったの」
まさか相手が使用人だとは思いもせず、ファソンは言葉もなく母を見つめる。
「とても働き者でね。同じ年頃の下僕が嫌がるような仕事でも、進んでやるようなそんな人だったわ」
「素敵な男だったのね」
相槌を打つと、母が笑んだ。ハッと胸をつかれるような、まるで可憐な少女のような微笑だった。
「そうね、素敵な人だったと思うわ。仕事の合間に私から話しかけたのがきっかけで、色々と話すようになって、いつしか恋仲になっていたの。そんな頃、お父さまとの縁談が知り合いを通じてもたらされた」
結局、母は父と結婚した。けれど、そこに至るまでに、母はどのように自らの心に折り合いをつけたのだろうか。ファソンはそれを知りたいと思った。
「お祖父さまとお祖母さま、つまり、私の両親はもちろん、私と彼のことを知らなかったわ。知れば、大事になったでしょうね。それでも、私は彼以外の男に嫁ぐなんて考えられず、彼に縁談があることを知らせたの。すると、彼は言った」
―二人で逃げましょう。
その下僕の青年はヨンオクが縁談があると打ち明けた三日後の夜、二人で手に手を取って、駆け落ちしようと言った。
―二人で俺たちを誰も知らないところに行って、二人だけで新しい暮らしを始めましょう。
彼は真摯な眼でヨンオクに言った。
「それで、どうなったの?」
ファソンは息を呑んで訊ねた。ヨンオクは微笑んだ。
「約束の場所に行かなかったの。彼は私たちが暮らしていた村の外れにある水車小屋で待っていると言ったけれど、私は約束の時間にそこに行かなかった」
作品名:国王の契約花嫁~最初で最後の恋~ 作家名:東 めぐみ