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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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 ヨンオクは依然として遠い眼で続けた。
「翌朝、一人で約束の場所に行ってみたわ。でも、当たり前だけど、彼はいなかった」
 代わりに簪が一つ、置いてあったそうだ。飾りもついていない安物の簪だったけれど、彼がヨンオクのために買ったものであることは明らかだった。もしかしたら、二人の新しい門出の贈り物として贈るつもりだったのかもしれない。
 ヨンオクは消え入るような声で言った。
「今でも時折、考えることがあるわ。もし、約束の夜、水車小屋に行っていたら、どうなっていたかしらって。きっと私の運命も大きく違っていたでしょうね。お父さまはご立派な方で、私を妻として大切にして下された。両班に生まれ両班に嫁いだ私を人は誰も幸せな生涯だと言うでしょう。でも、もしかしたら、彼の手を取っていたら、別の人生もあったかもしれないと後悔にも似た気持ちになることがあるのも確かよ」
 ファソンにとっては、あまり知りたくなかった母の独白だ。ファソンは恐る恐る訊いた。
「お父さまと結婚したのを後悔している?」
「いいえ」
 この時、ヨンオクはきっぱりと言った。
「後悔はしていないわ。でも、彼の手を取れば良かったと今も思うことがあるのも確かなの」
「どちらとも決められないのね?」
「そうね。今となっては、どちらが良かったのかなんて判らない。ただ、あの時、私は自分の気持ちに対しては嘘をついた」
「それは、どういうこと?」
「あなたには申し訳ないけれど、お父さまとの間に恋愛感情はなかったわ。親の決めた相手に言われるままに嫁いだの」
「一緒に行こうと言われた男のことは好きだったのね」
「ええ。好きだったわ」
 ヨンオクは頷き、ファソンを見た。
「私がこんな昔話をあなたに打ち明けた理由が判るかしら」
 ファソンが首を傾げるのに、ヨンオクは笑い、幼いときのように娘の髪を撫でた。
「ファソン。親が決めた相手に文句も言わずに嫁ぐのは、両班の娘として生まれた宿命のようなものよ。私やあなただけじゃなく、他の大勢の女人も同じことだわ。皆、何も言わないけれど、好きな男がいるのに他の男に嫁がされ、泣いた女もいるでしょう。そんな中で、あなたは心からお慕いする方にめぐり逢えた。そして、その方の妻になれることが決まっている。それがどれだけ幸せで恵まれたことか。あなたは考えてみたことがあって?」
「お母さま」
「今、あの方の手を放したら、あなたはきっと後悔するわよ。何故、彼が差し出した手を取らなかったのか、自分の気持ちに正直に向き合わなかったのかと、私のように幾つになっても考えることになるわ」
 他人からうり二つだと評されるファソンそっくりの母。その母が淡い微笑を浮かべて立ち上がった。
「私が話したかったのは、それだけよ。後は自分でよく考えなさい」
 母が静かに去った後、ファソンは庭に視線を向けた。紫陽花ははや、花びらが乾いて色が茶色っぽく変わっているものもある。
 決断をしなくても、刻は流れてゆく。
 変わらないものなど、この世には何一つありはしないのだ。
 すべてが刻一刻と変化し、うつろってゆく中で、確かなものがあるとしたら、それは何だろう。
 ファソンはその後もずっと、チェジンが様子を見にくるまで、その場所で紫陽花を眺め続けた。

 今日も都漢陽の下町外れ、??さんの本屋?は、大路の賑わいが嘘のように、ひっそりと静まり返っている。
 ファソンはそっと深呼吸する。同時に大好きな紙の特有の匂いが身体中に滲み渡り、生き返った心地がした。よくぞ二ヶ月以上もの間、この大好きな場所に来なくて平気だったものだ。
 宮殿で暮らしている間は、カンが立派な王宮の書庫に連れていってくれた。あれはあれで素晴らしかったけれど、やはりファソンにとっては、下町のこの古本屋がいちばん落ち着ける場所に違いない。
 カン。ファソンは今でも忘れられない愛しい男の面影を胸にいだき、そっと心で呼ぶ。まるで手放したくない宝物を愛おしむかのように、心を込めて呼ぶ。
 今頃、どうしているだろう? また風邪を引き込んで伏せているのではないか。?続春香伝?を書くのに時間を忘れ果て、無理をしているのではないだろうか。
 逢いたい、逢いたいよ、カン。 
 大好きな男の名を呼びつつ、本がずらっと並ぶ本棚を眺め渡したその時、左端の最上部に初めて見る書名が眼に付いた。
「なになに、?続春香伝?」
 そのタイトルを見て、ファソンは眼を瞠った。慌てて伸び上がるようにしてつま先立つ。
 こんな時、カンが側にいてくれたら、すぐに取ってくれるのに。―カン。
 また、名を呼びそうになったその時。
 ファソンの頭越しに手が伸びて、?続・春香伝?は先客に奪い取られてしまった。
「申し訳ないですが、この本は私が先に見つけたのです」
 戸惑いがちに言い終えたファソンの上に、クスクスという笑い声が降ってきた。
「これを書いたのは、この私なんだけど」
「カン!?」
 見憶えのある薄紫のパジを上品に着こなしたカンが笑顔で立っている。
「相変わらず、ここが好きなんだね。?本の虫?のお嬢さん」
 彼の笑顔はどこまでも屈託がない。まるで、初めてここでめぐり逢った日に時間を巻き戻したようだ。
「小説が完成したのね」
「ああ、ファソンを歓ばせたくて、これでも頑張ったんだ」
 親に褒めて貰いたい子どものように得意げに言い、それから慌てて言い足す。
「あ、でも、別に昼の政務はサボッてないからな。ちゃんと夜に書いた」
 更にカンは早口で言った。
「そなたと一緒に夜を過ごさなくなったから、夜は時間を持て余すようになった。だから、執筆の方もはかどったんだ。だが、私はファソンと一緒の方が良い。そなたと愉しく語らって同じ寝台で眠った夜の方が良い」
 カンの頬がうっすらと上気していた。
「もう一度、ここから始めよう。私にとって妻と呼べるのはファソンしかいない。改めて求婚させてくれ。私と共に生きて欲しい」
 ファソンの瞳に大粒の涙が盛り上がった。
常に変わりゆくこの世で変わらないもの。 今こそ知った。
 それは今、この瞬間、自分の心があなたの許に向かって流れているということ。
 たとえ何がどう変わろうと、私のこの想いだけは変わらない。
 ファソンはカンのひろげた腕に飛び込んだ。その背にカンの手がしっかりと回される。
 ファソンの結い上げた漆黒の髪に蒼い鳥を象った菫青石(アイオライト)が夏の陽差しを受けて燦めいた。


  終章〜そして物語は続く〜

 ?続春香伝?はその後、??さんの本屋?で売られるようになり、口づてにひろまり、人気に火が付いた。
 ?春香伝?の愛読者たちは、あの続編が出たということで、こぞって読みふけったという。売り本だけでなく貸本も数冊置いてみても、どちらもすぐに売り切れるか借りられてしまい、待ちきれずに持っている者に大枚をはたいて借り受け、自ら書き写す者まで続出したとのことだ。
 続編は、?春香伝?でモンリョンに不正を暴かれた使道の弟が兄の復讐を図るという筋書きである。舞台は都に移り、晴れて高官となったモンリョンは或る日、友人に誘われて妓房に上がる。