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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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 女官が外側から両開きの扉を開け、ファソン、お付きの尚宮、チェジンの順で入室した。
 ファソンは両脇から尚宮とチェジンに支えられ、大妃に拝礼を行った。
「忙しいところ、呼び立てて済まなかった」
 拝礼を終えて座ったところで、大妃が鷹揚に言った。皮肉かと思ったが、大妃の花のかんばせには微笑が浮かんでいるだけだ。
 どうも風向きが以前とは全然違う。眼の前の慈母観音のような女性と、金切り声でファソンを罵り叩いた夜叉のような女が同じ人だとは俄に信じがたい。
 唖然としているファソンの前に、馬尚宮が運んできた茶を置いてゆく。それこそ毒でも入っているのかと、ファソンは落ち着かない視線を湯飲みに落とした。
 と、華やかな笑声がその場に満ちた緊迫を破った。
「毒なぞ入ってはおらぬ。安心して飲まれよ、陳照儀(ソイ)」
「は、はい」
 思わず応えた後、ファソンは首を傾げた。今、大妃は何と言った? 
 ファソンの疑問を見透かしたかのように、大妃が妖艶な笑みを浮かべた。
「おや、そなたは知らなかったのか? 今日付で主上がそなたを昭媛から照儀に昇進させるという王命を出したと聞いていたが」
 ファソンは眼を見開いた。
「そのような話は一切、お伺いしておりません」
 大妃はしらっと応える。
「おや、それはおかしなこともあるものだの。当の本人が知らぬとはな」
「あの、私は」
「何だ?」
 大妃の視線に射貫かれ、ファソンは一瞬たじろいだものの、ひと息に言った。
「私はその王命を承ることはできません。国王殿下にはお暇乞いをお願い致しましたので」
「なるほど。だが、主上がその願いを聞きとどけられるとは思えぬがな。あれほど、そなたにご執心なさっておられるものを」
「大妃さまは私が主上さま(サンガンマーマ)のお側にいるのはご反対ではなかったのですか?」
 どうも態度を豹変させた大妃の真意を測りかね、ファソンは訊ねずにはいられなかった。今の口ぶりでは、大妃はむしろカンの側にファソンを置いておきたいとでも言いたげではないか!
「何とも思ったことをはっきりと申す娘よ。愚かなのか、怖れ知らずなのか」
 大妃は呆れたように言い、笑った。
「ま、それはいずれ時が明らかにしてくれようぞ」
 大妃はスと表情を引き締めた。その冷めた表情は以前、あからさまな憎しみをファソンに向けたときと同じものだ。やはり、大妃はファソンの存在を認めたわけではなかった。
 だが、何故、偽りの親しみを束の間とはいえ、示して見せる必要があったのか。
「そなたの申すとおりだ。私はそなたが今でも気に入らぬ。叶うことなら、主上のお側からさっさと追い払ってしまいたいと思うている」
 大妃は言葉を切り、綺麗に整えられた指先を見つめている。ファソンは問うた。
「私が左議政の娘だから、お気持ちを変えられたのですか?」
「それもないとは言わぬ。だがな」
 大妃は首をゆっくりと振った。
「主上のお気持ちがどうでも動かぬと知った今、そなたを疎んじて何とする? あの子は幼き折より、頑固であった。しかも、そなたの父はこれよりまたとない強力な主上の後ろ盾となろう。主上のお気持ちとそなたとの婚姻によって得る外戚の力を考えれば、敢えて私が反対する理由はどこにもない」
 大妃がどこか晴れやかにも思える笑みを浮かべた。言い換えれば、吹っ切れたともいうべき笑いでもあった。
「主上が他の娘を今後一切後宮に入れるつもりはないと宣言されたからには、そなたを後宮から追い出すわけにはゆかぬではないか」
 ファソンは首を傾げた。
「お言葉ではございますが、大妃さま。中殿さまを選ぶ選考試験は予定どおり行われ、無事に十数名の方が三次選考に進まれたとか。更にその中から五名の方が最終選考に残ったとも聞き及んでおります」
 二次選考と三次選考はほぼ時を置かずして行われた。五人の令嬢が最終選考に臨むと聞いている。即ち、最終選考に残ったということは、その五人がカンの後宮に入るのは決まったも同然であり、その五人の中から次代の王妃が立つ運びだ。
 大妃が笑い出した。何がおかしいのか、ころころと笑っている。ファソンは呆気に取られ、大妃を見つめた。
「確かにのう。五人の娘が最終選考に残ったとは聞いておる。さりながら、その娘どもが主上のお側にお仕えすることはない。それぞれがふさわしき年格好の王族に嫁すこととあいなろう」
「それは、どういうことでしょうか」
 何故、未来の王妃を選出するための試験で選ばれた令嬢が王族の妃になるのか? ファソンは皆目判らず、眼をまたたかせた。
「言葉どおりだ。主上にその気がおありにならぬゆえ、中殿選びは中止とあいなった。されど、折角最終選考まで残った娘たちを無下にもできぬ。そういうわけで、令嬢やその父親の体面を保つには、せめて適当な王族男子に娶せてやるのが良策ということになったのよ」
 ファソンは言葉もなかった。けれど、今となっては大妃に言いたいことはある。
「最初から、そのおつもりだったのですか?この度の中殿さまを選ぶための試験はかりそめのものにて、最終選考に残った令嬢方は王族に嫁がせると?」
 大妃が鼻を鳴らした。
「馬鹿なことを申すでない。本来であれば、残った令嬢たち五人はそのまま主上の側室となるはずであった。主上が聞き分けのないことを仰せゆえ、致し方なく取った苦肉の策だ」
 大妃は黙り込んだファソンを透徹なまなざしで見据えた。
「そこまで存じておるからには、そも最初から決まっていたという中殿が誰なのかも心得ておるのであろう、陳ファソン」
 ファソンは大妃の厳しいまなざしを真正面から受け止めた。
「私は中殿になるつもりはありません。そのような器ではありませんし、主上さまも私をお迎えになることをお望みではないと思います」
 埒もない、と、大妃が切り捨てた。
「認めるのは癪ではあるが、あの書庫から出てきた主上とそなたを見た時、二人が相思相愛であることは一目瞭然であったわ。何も私が望んでいるのではない。他ならぬ主上ご自身が強く望まれているのだ。中殿には陳ファソンしか望まぬと、王妃はそなたしか考えられぬと」
 ―それでも、自分は中殿にはなれない。このお話をお受けすることはできない。
 ファソンが言いかけたまさにその時、扉の向こうから女官の声が響き渡った。
「国王殿下のおなりにございます」
 刹那、ファソンの顔色が変わった。老獪な大妃はまるで研いだ爪を隠し持つ猫のようだ。素知らぬ顔で応えた。
「お通しせよ」
 ほどなく扉が開き、国王が入ってきた。その場にファソンを認め、王の整った顔も瞬時に強ばった。
「これは奇遇なこともあるものだ。嫁が機嫌伺いに来てくれたところに、息子が来るとはのう」
 大妃は立ち上がった。
「さて、邪魔な年寄りは早々に退散致すとしよう。夫婦二人だけの話もあろうゆえ、心ゆくまで話すが良い」
 意味深な科白を残した大妃が室を出てゆきかけ、つと振り向いた。
「陳照儀、いや、まもなく中殿になられるのであったな」
 わざとらしく言い直し。ファソンを強い瞳で見つめた。