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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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 当代の国王賢宗は二十一歳だと聞いている。十年前に父王の早すぎる死の後、十一歳で即位。最初は生母である朴大妃とその父、つまり幼い王には外祖父に当たる領議政(ヨンイジョン)がその後見として政に当たっていたが、六年前、王が成人したのを機に国王親政が始まった。
 二年前、外戚として権勢を振るった領議政が亡くなっても、いまだに王の母朴大妃の朝廷における影響力・発言権は絶大だという。
「確かに王宮の書庫に?忠孝明道?はあるが」
 彼は形容しがたい複雑な表情で呟き、ファソンを見た。
「そなたは父か兄に頼まれて、その本を探しにきたのか?」
「あら、違うわ」
 否定すれば、青年がちょっと憮然として言う。
「許婚とか、恋人とかに頼まれて?」
「そんな男はいないわよ」
 ファソンはクスクスと笑う。青年が勢い込んで続けた。
「そう申せば、そなたは先ほど、国王の話をしたな。王といえば、今は国婚の準備が始まり、国中の適齢期の両班の令嬢には禁婚令が出ているはずだ。そなた、見れば、それなりの家の娘のようだが、そなたは王の妃候補として名乗り出ていないのか?」
 ファソンは黒い大きな瞳をくるっと動かした。
「まさか、私がお妃ですって? あなた、知ってるの?」
 ファソンは声を低めた。
「お妃に名乗りを上げて選抜試験を受け、紛れでも最後まで残ったら、どうなると思う?」
「何か大変なことになるのか?」
 彼がいささか不安そうに言うのに、ファソンは真顔で頷いた。
「最悪は中殿さまになるか、外れても側室として後宮入りは必至よ。冗談じゃない。一生、豪華でも狭い鳥籠に閉じ込められて終わるなんて、私は願い下げだわ」
「中殿になるのは最悪なのか―」
 青年の整った顔が何故か引きつっている。
「中殿といえば、両班の娘であれば誰もが夢見ているこの国最高の地位であろうに。そなたは何ゆえ、それを望まぬ?」
「だから言ったでしょ。一生、狭い後宮に閉じ込められるのはご免だって」
 ファソンは言うと、またクスクスと笑った。
「それに、幾ら国王殿下が物好きでも、私を見れば絶対に嫌だとお思いになるわ」
「それは何故?」
「私は?本の虫?だから」
「本の虫?」
 彼が素っ頓狂な声を出す。
「あなたは信じてないようだけど、この?忠孝明道?は私が読むのよ」
「そう、なのか?」
「ええ」
 ファソンは迷いなく応えた。
「本当はね、私の父に頼めば、この本を手に入れることはできると思うの。でも、父は私がこんな難しい本を読むことを歓ばないのよ。女はせいぜい?内訓?を読めばそれで良いと信じているようなカチコチの石頭の時代遅れなのよ」
「カチコチの石頭の時代遅れ―」
 青年はまた呆気に取られている。
「私は」
 ファソンは言いかけ、伸び上がるようにして青年を見上げた。ひょろ長い彼と小柄なファソンでは向かい合うと勢い、そんな体勢になる。青年はファソンに真正面から見つめられ、また頬を上気させた。眩しい陽光でも見るかのように、しきりにまたたきしている。
「やっぱり良い」
 ファソンが首を振ると、彼はすかさず言った。
「話してくれ。そなたの話をもっと聞いていたい」
「でも、あなたも所詮は両班の男よ。私の話を理解はしてくれないでしょうし」
「とにかく話してみてくれ。絶対に笑ったり否定したりしないと約束する」
 ファソンは彼の眼を見た。真剣そのもののまなざしに嘘はない。彼がファソンの話に納得するかどうかはともかく、少なくとも耳を傾けてくれるのは確かなようである。
「あなたを信じるわ」
 ファソンは話し始めた。
「私は色々なことを知りたい。?内訓?なんて所詮は女の通り一遍の心得を説いただけよ。そんなものじゃなくて、もっともっと広い世界のことを、この国をより良くするには、どうしたら良いのか。そういうことを考えてみたいの」
「なるほど」
 青年は約束どおり、ファソンの打ち明け話を真摯に聞いてくれた。
「それで、?忠孝明道?を読みたいと思ったのだな」
「そう。清国は大国だけあって、私たちが見習うべきことはたくさんあると思う。だから、何とかして彼(か)の国から来た書物は読みたいと思ったのよ」
 ?忠孝明道?は前半はその書名のごとく人としての徳目を説いたものだが、後半は国のあり方について記されている。全体を貫くのは、政は民のためにあるべきものであり、国の根本であり財産は民草であるという考えだ。
 儒教思想とは少し考え方を異にしたものではあるが、政について判りやすく説かれた優れた書物として評価されている。若者にも言ったとおり、最初は父に読みたいと頼んでみたものの、案の定、
―おなごには不要。
 と、一蹴されてしまった。
「あなたももう、少しは読んだの?」
 問えば、青年はまた顔を引きつらせた。
「いや、その」
 そこで、ファソンは笑った。
「まだ読んでいないのね」
「恥ずかしい話だが」
 自分を取り繕おうとせず、正直に話すところが好ましい。彼の率直さをファソンは嫌いではなかった。
「まあ、あなたときたら、?春香伝?が愛読書みたいだし」
 笑いを含んだ声音で言うと、彼が恥ずかしげに頬を染めた。
「私もそなたと同じだ。屋敷にいれば、俗な小説などろくに読めぬ。どこに監視の眼が光っているか判らぬでな」
 実は、と、彼が袖から取り出した帳面の表紙には?続春香伝?と流麗な手蹟で書かれている。
 ?春香伝?は作者不明の小説である。元々はパンソリの詠唱曲であったものが人気を博し、小説化された。両班が書いたとも伝えられているが、同じ?春香伝?でも微妙に筋が違っているものがそれぞれ流布しており、正確なところは判らない。
 妓生と両班の間に生まれた美しい娘春香は妓房で生まれ育つが、ある日、その地方を治める代官(使道)の息子夢龍(モンリョン)と恋に落ちる。父の任期が終わり、モンリョンは都に帰るが、それに際し、必ず迎えにくると約束する。
 何年か後、モンリョンは見事に科挙に合格、暗行御使(アメンオサ)となり再下向する。暗行御使とは国王の命令を受け、地方官が善政を行っているかどうかを極秘調査する任務を帯びる。いわゆる隠密である。
 後任の悪徳代官(使道)に横恋慕され無理に妾にされようとした春香はモンリョンのために操を守った。そのために、拷問の末、投獄される。悪徳代官の不正を暴いたモンリョンが春香を助け、最後に二人はめでたく結ばれるという話だ。
「?春香伝?の続きを今、書いている」
「ええっ。まさか、あなたが?春香伝?の作者ということ? あなたが小説を書いてるの―」
 流石に愕いた。思わず叫んだその口を若者の手が覆った。
「シッ。声が高い」
 彼が低声になった。
「そんなはずがないであろう。?春香伝?は私が書いたものではないが、自分で読んでみて、是非、続きが描いてみたいと思ったのだ」
 線の細い優男に見えても、やはりその手は大きく、男のものだ。父以外のしかも若い男性に触れられたのは生まれて初めてのことで、ファソンは身を強ばらせた。
 少しく後、若者は我に返ったようで、まるで焔の塊にでも触れたかのように素早く手を放した。
「す、済まぬ。さりながら、読むだけならともかく、書いていると知られるのは幾ら何でも、まずいのだ」