国王の契約花嫁~最初で最後の恋~
「いいえ、逢いたくないの、今はまだ」
ファソンの物言いがおかしかったのか、チェジンはクスクスと笑った。
「?今はまだ?ですか? では、いずれはお逢いするということですね」
ファソンは紅くなった。
「そういう意味ではないの。ええ、そうですとも。あんな方には絶対に逢いたくないわ」
「お嬢さま、強情は良い加減になさらないといけませんよ。可愛げのない女は殿方に嫌われますからね」
どうにも癪に障る言い方に、ファソンは自棄になって叫ぶ。
「別に構わないわ。どうせ、あの方は私のことなど端からお嫌いだったんだから」
チェジンが意味ありげに言う。
「そんなことをおっしゃって、良いんですか? 昨日、いよいよ中殿さまを決めるための二次選考試験が行われたっていいますよ。悠長なことをおっしゃっていたら、王さまのお心を他の女に盗まれてしまいますよ」
「勝手にすれば良いわ。側室でも中殿でも持ちたいだけ持てば良いのよ」
また叫んだが、チェジンの返事はない。
ファソンは信頼する乳姉妹にして今は女官見習いとなったチェジンを呼んだ。
「チェジン?」
だが、やはり、いらえはない。代わりに聞き慣れた声が返ってきた。
「ファソン」
どれだけ聞きたかったことだろう。たった一日聞いていなかっただけなのに、もう、こんなにも彼の声を聞きたいと思う。
ファソンはつい顔を布団から出した。いつしかチェジンはいなくなっていた。
「ファソン」
カンが心配そうな表情で見つめている。 ファソンは慌てて布団を頭から引き被った。
「ファソン。隠れないで、顔を見せてくれ」
カンの声が近づき、枕許に椅子を引き寄せて座る気配がした。ファソンは依然として布団を被り、息を潜めている。
「今度のことは済まなかった」
何が?済まない?ですって? あなただって、見合い相手の令嬢が私だとは想像もしなかった。だから、あなたが私に?既に決められた中殿?が陳家の娘だと話さなかったのは、別にあなたのせいではない。
そんなことは判っていた。カンが悪いのでも責任があるのでもない。
運命があまりにも皮肉で、残酷すぎたのだ。
私がいちばん哀しかったのは、あなたが何も話さなかったことではない。あなたが既に出逢う前から、私を嫌っていたのを知ったからよ。
逢う前から嫌われているのでは、私はもう、あなたの側にはいられないわ。
大きな溜息が聞こえ、ファソンは彼が諦めて出ていくのかと思った。が、次の瞬間、ファソンは掛け布団ごと、ふわりと身体が宙に浮いたのを自覚した。
「―?」
ほどなく被っていた布団が引きはがされ、眼の前には今、いちばん逢いたくて逢いたくない男がいた。しかも、ファソンは夜着のまま寝台に座ったカンの膝に乗っている。
「布団に隠れて出てこないなんて、まるで子どもだな」
カンはファソンを膝に乗せたま、笑っている。だが、ファソンの顔をしげしげと見て、その端正な顔を曇らせた。
「眼が腫れている。どうして、そんなに泣いたんだ?」
ファソンは顔を背けた。
―あなたに嫌われたから哀しくて泣いただなんて、絶対に言うものですか。
「殿下にお願いがあります」
他人行儀に言うと、カンの眉がつり上がった。
「願いとは何かな、陳昭媛」
どうやら、ファソンの出方を見るつもりになったようである。
「お暇を頂きとうございます」
が、流石にこれは想定外の頼みだったようで、カンの秀麗な面が見る間に強ばった。
「後宮を去って、いかがするつもりだ?」
相当怒らせたのか、声も今まで聞いたことがないほど低い。
「実家で心静かに過ごそうと考えています」
「一生、誰にも嫁ぐつもりもないのか?」
「互いに想い想われる相手と出逢うことがでれば、また嫁いでも良いかと―」
ファソンは皆まで言えなかった。
「ならぬ!」
カンの怒声に、ファソンは身を竦ませた。
「そなたは私のものだ。勝手に後宮を去ることも他の男と結婚することも許さぬ」
刹那、ファソンの身体は強い力で寝台に突き飛ばされていた。
「そなたは髪の毛ひと筋まで俺のものだ。他の男になど渡すどころか、触れることさえ許すものか」
寝台に仰向けになったファソンの上から、カンがのしかかってくる。
「カン―」
ファソンは、これまで見たことのないカンの凄まじい怒り様に怯えた。
「私、あなたを怒らせるつもりでは」
言いかけた唇を乱暴に奪われる。息をつかせない口付けは延々と続き、ファソンが息苦しさに喘ぐ度に、カンの愛撫はいっそう荒々しさを増していった。
「―いやっ」
怯えて寝台から逃れようとするファソンをカンは押さえつけ、乱暴に夜着を剥ぎ取った。ろくに馴らすこともせず一気に貫かれ、ファソンの唇からか細い悲鳴が上がった。
「―ぁあっ」
寝台の上で白い背中が弓なりに仰け反る。背後から覆い被さったカンに烈しく揺さぶられながら、ファソンは涙を零した。
―あなたにとって、私は所詮、いつでも欲しいままにできる慰みものでしかなかったというの―。
真夏だというのに、心が凍えそうなほど寒かった。誰か温かい腕で抱きしめて欲しい。
ファソンは泣きながら意識を手放した。
意識を失ったファソンのたおやかな身体をカンはそれでもまだ狂ったように貪った。
ファソンの許に大妃殿から招きがあったのは、その翌日のことである。
「どういう風の吹き回しかしら」
ファソンは可愛らしい顔を曇らせ、チェジンに例の大妃との一件を話した。宮殿の書庫を出たところで大妃と遭遇し、あらぬ誤解をかけられ罵倒された挙げ句、頬を打たれたことを話すと、チェジンは自分のことのように憤慨した。
「許せません。たとえ国王さまのお母君といえども、あたしの大切なお嬢さまをぶつなんて。今度、逢ったら、あたしの方が大妃さまを殴ってしまうかもしれません」
などと、真顔で怖ろしいことを言っている。
「毒でも飲まされるのかもしれませんよ」
と、また、さらりと続けるのに、ファソンは苦笑いしかない。
「毒を飲めというなら飲んでも良いけど、飲むなら大妃さまも一緒だわ。一人で死んであげるほど、このファソンさまは甘くないんだから。大妃さまも道連れになって頂くわ」
「まあ、お嬢さまったら」
チェジンは笑い転げている。物騒な会話をする主従だが、どちらも大真面目な顔だ。
ファソンが大きな息を吐いた。
「それにしても、本当に一体、何の魂胆があるのかしらね」
「さあ、それは判りませんけど、大妃さまのご招待をまさかお断りするわけにもいかないでしょうし」
チェジンも愁い顔だ。
「毒を食らわば皿までとも言うわね。こうなったら、行くしかないみたい」
ファソンはとチェジンは顔を見合わせ、溜息をついた。
その日の午後、ファソンはお付きの尚宮とチェジンを伴い、大妃殿を訪れた。何か手土産が必要かと、葛と寒天で作ったゼリーをよく冷やしたのを涼しげな玻璃の器に形よく盛り、それを小卓に乗せて運ばせる。
大妃殿の前に控えていた馬尚宮に到着を告げると、馬尚宮は大妃の意向を伺いにいった。ほどなく入るようにと言われ、馬尚宮に案内されて庭から続く階を昇り殿舎に入る。
作品名:国王の契約花嫁~最初で最後の恋~ 作家名:東 めぐみ