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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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 しかし、次には真顔で言う。
「いやいや、可愛いその顔に少しでも傷痕が残っては大変だ」
 彼は丸卓の上に乗った円い小さな器を取り上げた。器は陶製で、蓋には藍色で牡丹と蝶が描き込まれている。カンは蓋を開け、器に入った軟膏を指で掬った。
「少し痛むかもしれないが、我慢してくれ」
 カンは軟膏をファソンの傷に丁寧に塗った。確かに触れられれば痛む。だが、そこまで心配するほどではない。
 それでもカンは軟膏を何度かに分けて丹念に塗ってくれた。
「これはヒビやあかぎれにも効くのだ。今日の騒動を聞いて、セオクが届けてくれた。むろん、切り傷、擦り傷にもよく聞くゆえ、治りも早いだろう」
「金尚宮さまが下さったの?」
「ああ。私が幼い頃にも転んで怪我をする度に、よく塗ってくれた」
 どこか遠い瞳で懐かしげに語るカンの横顔には、拭いがたい翳りが落ちていた。もしかしたら、彼が思い出す遠き幼い日の記憶には、実の母である大妃はいないのかもしれない。
 それは今日の二人を見ても、自ずと知れることであった。ただ単にファソンが原因で仲違いをしたというわけではなく、二人の間に生じた溝はもっと根深い部分から始まっているように思えてならなかったのだ。
 部外者のファソンですら、それを微妙に感じ取ったのだから、当事者たちは更にしっかりと自覚しているに相違ない。
 ファソンはわざと明るい声を出した。
「カンはやんちゃ坊主だったのね? きっと金尚宮さまや沈内官を困らせてばかりいたのでしょう」
「いまだに家出するお転婆な?本の虫?姫には言われたくない科白だな」
「それは言わないで」
 ファソンは身を縮めて言い、カンはそれを見て大笑いした。
 が、ふとした拍子に彼は呟いた。
「セオクや爺がいなければ、私はとっくに気が狂っていたかもしれないな」
「カン―」
 ファソンは何を言うこともできず、切なくカンを見た。
「おかしな家族だった。父も母も健在だというのに、父は母以外の女―側室たちの許に入り浸りで、妻と息子を顧みもしない。母は母で良人に振り向かれぬ淋しさを美麗な衣装や宝飾品で身を飾ることで忘れようとした。普段は自分に息子がいることなど忘れ果てている癖に、ふとした拍子に思い出すんだ。そして、狂ったように息子を溺愛した」
 カンは自嘲気味に笑った。
「ひとしきり息子を構った後は、また私のことなど思い出しもしない。気まぐれな母の愛情をそれでも子どもだった私は待っていたよ。今度はいつ母の笑顔を見られるのか、そればかり考えていた。そんな私にごく普通の愛情を与え、それがどういうものかを教えてくれたのが爺とセオクだった。私にとっては実の両親よりも爺とセオクが身近で、本当の親のようなものだ」
「昼間のことはカン、私が悪かったからで―」
 言いかけたファソンに、カンが哀しげに微笑んだ。
「いや、そなたは悪くない。幾ら何でも、あれは大妃さまの言い過ぎだ。気が狂ったとしか思えない」
 カンは?母上?ではなく?大妃さま?と呼んだ。ファソンは瞳を潤ませた。
「カン、大妃さまはカンを生んでくれたお母さんよ。お母さんのことをそんな風に言ってはいけないわ」
 ファソンは涙声で言った。
「大妃さまは国母であらせられ、この国で最も高貴な女性だわ。そのお方に私は刃向かった。確かに礼儀をわきまえないと誹られても仕方なかったと思う。だから、もう、大妃さまのことを悪く言うのは止めて」
 確かに、あのときはファソンもカッとなって大妃に心のままを吐露してしまった。父母を侮辱され、逆らってはいけないと思いつつ、抑えられなかった。自分だけなら貶められても我慢できたけれど、大切な父と母を悪し様に言われて、許せないと思った。王の母に対して初対面で食ってかかったのだ。確かに大妃は行き過ぎであったが、ファソン自身にも非がないとはいえなかったのだ。
 カンが笑った。
「私はそなたのそう言うところが好きなんだよ、ファソン」
 単に性格を褒められただけだというのに、そんな些細なことにも頬が熱くなってしまう。紅くなったファソンを優しい眼で見つめ、カンは言った。
「今日のことでは、そなたに辛い目をさせた。何か詫びがしたいのだが、欲しい物はない?」
 ファソンは慌てて首を振った。
「そんなもの、要らないわ」
 いや、と、カンは今度ばかりは、きっぱりと断じた。
「どうしても詫びをしたい」
 ファソンは困ったように眉を下げた。
「そんなことを言われても、かえって困る」
 カンがすかさず言った。
「特に欲しいものでなくても構わない。何かして欲しいこととかあれば、遠慮無く言ってごらん」
 ファソンは少し躊躇った後、控えめに言った。
「一度、家に帰らせて」
「ファソン。まさか、私の側から去るというのか?」
 カンの声が一段低くなる。ファソンは慌てた。
「違うの、そういう意味ではなくて。一度、家に帰って両親に無事な姿を見せたいの。屋敷を黙って出て、もうそろそろ二ヶ月になるわ。父のことだから、きっと都中を探したでしょうけど、私を見つけられなくて心配していると思うの。母は母で心配性だから、どうしているかと考えると、気が気じゃなくなってしまうのよ」
 その説明で、彼は漸く納得したようだ。
「なるほど、そういうことか」
 確かにな。彼は小さく頷きファソンを見返す。
「宮殿で暮らしてみて、私、自分がどんなに世間知らずだったか知ったような気がする。今までは両親がああしなさい、こうしなさいと言うのが鬱陶しくて、早く束縛から解放されたいとばかり思っていたけれど、本当は父や母に守られていたんだなって、判った。父と母なりに私の幸せを願って、見合いをしろと勧めたのね、きっと。でも、子ども過ぎた私は親の愛情を理解できなかった。だから、家に戻って、父や母に謝りたい。それから、どうしても伝えたいことがあるの」
「―」
 カンが訝しげにファソンを見る。彼女は瞳を閉じて、また開き、ありったけの勇気をかき集めて言った。
「本当に好きな男の傍にいる幸せを知ってしまったから、もう別の男には嫁げないと言うわ」
 カンが眼を見開いた。
「それは、私を好きだということか?」
 ファソンは恥じらいながらも、しっかりと彼の眼を見て頷いた。
 カンの綺麗な面にひときわ優しい微笑が浮かぶ。
「そんな可愛いことを聞いたら、もう二度と放してやれなくなるぞ。気が変わったというなら、今の中だ」
 ファソンは泣き笑いの表情で首を振る。
「大丈夫。さんざん悩んで、やっと自分の気持ちを素直に口にできたの。心変わりなんかしない」
 随分と回り道をしたけれど、これで悔いはない。彼の側にいたいという気持ちと、彼と共に生きてゆきたいという気持ち。どちらの想いにも眼を背けず、運命を受け容れていこうと思うのだ。
 それは即ち、後宮の女になるということでもあった。王の側室として、いずれ彼が迎えるであろう中殿や他の側室たちと共に後宮で生きてゆく。