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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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「そのような恥を知らぬ者を王族とも嫁とも認めるつもりはない」
「母上!」
 カンの声が大きくなった。
「大体」
 大妃が初めてファソンを見た。睨(ね)めつけるような視線に、身が竦むようだ。ファソンはあまりにもあからさまな敵意に膚が粟立った。朝鮮開国以来の功臣の名家に生まれ、大切に育てられた令嬢育ちのファソンは生まれてこのかた、ここまでの凄まじい憎しみを向けられたことはなかった。
「そなたらは、あの書庫で何をしておったのだ? 書庫は貴重な書物を保管する神聖な場所でもある。そのような場所で昼日中から、淫らな行いに耽るとは許し難い。そなたも下級とはいえ、両班の娘なら、恥を知るが良い」
 あまりの言葉に、ファソンは唇を噛んだ。無意識に強く噛んだため、口中に鉄錆びた味が苦くひろがる。
「大妃さま(テービマーマ)。それは誤解です。私は天に誓って、そのような恥ずべき行いは致しておりません」
 せめてこれくらいは許されるだろう。ファソンが言い終えた時、ピシッと空気を打つような鋭い音が響き渡った。
「―」
 ファソンは思わず手のひらで頬を押さえた。両親にでさえ、ぶたれたことはない。厳しい父も口うるさい母も、ファソンを叱ることはあっても、手を上げたことはなかった。
「母上(オバママ)」
 カンの顔色が瞬時に変わった。
「そなたごとき小娘がこの大妃である私に直接もの申すとは何という身の程知らずな。目上の者に無闇に話しかけてはならぬと父母から教えられなかったのか! もっとも、このような淫売を生んで育てるような親の躾なぞ、たかが知れておろうがの」
 ファソンは膝前で組み合わせた両手を白くなるほど握りしめた。
「あんまりです、大妃さま」
「淫売を淫売と申して何が悪い。そなたがやっておることは主上に色目を使い媚を売る、妓生がやっておることと同じではないか。両班の息女が色町の遊び女と同じことをしておるというのだから、この国ももう世も末であろう」
 涙が、溢れた。ここまで他人に悪し様に言われたのは初めてだ。何故、自分がここまで貶められねばならない? しかも、自分だけではなく、両親のことまで。
「私のことはまだよろしいのです。さりながら、何の拘わりもなき父母まで悪し様に仰せになるのは止めて下さいませ」
「生意気なッ」
 またピシリと、乾いた音が響いた。ファソンは打たれた両頬にひりつく痛みを憶えながら、大粒の涙を流した。
 ついに、カンが切れた。
「母上っ、止めて下さい。昭媛にどのような罪咎があって、このような酷いことをなさるのですか!」
 大妃がキッとカンを睨みつけた。
「大体、そなたが悪いのです。このような小娘にのぼせ上がってしまわれ、後先も考えず側室にするなど。今がどのような大切なときなのか、主上もお判りでしょう」
 息子に諫められ、大妃の怒りはますます煽られたようだ。当然ながら、その怒りはファソンに向けられた。
「ええい、お前が悪いのだ、お前が王宮に来てから、主上は狂ってしまわれた。お前さえ、主上の前に現れなければ良かったのだ。そなたがすべての禍を招く元凶に違いない」
 今度はファソンも、大妃の振り上げた手をよけようとした。しかし、その手の先が頬を掠め、ファソンの白い頬には糸ほどの細い傷ができてしまった。雪膚にくっきりと浮かび上がる鮮やかな紅い傷に、カンが悲鳴を上げた。
「たとえ母上だとて、もう許せぬ」
 カンの握りしめた拳が戦慄いていた。それを見た大妃がヒステリックな笑い声を上げた。
「何と、真、その妖婦に惑わされてしまいましたか、主上。実の母を、そなたを腹を痛めて生みしこの母を手にかけるおつもりか!」
 ファソンは信じられない想いでカンを見た。いつも穏やかな彼がここまで怒りを露わにしたのを初めて見た。だが、このままでは本当に大妃に殴りかかっていきそうな勢いだ。
 ファソンはその場に跪き、カンに取り縋った。
「殿下、お願いでございます。どうか、お怒りをお鎮め下さい。すべては私が至らず、大妃さまのお怒りを招いてしまったゆえなのです。ゆえに、この場はどうか」
 自分などのためにカンと大妃の母子仲に亀裂が入ってしまったとしたら―。それはあまりに哀しいことだ。
「殿下、殿下。お願いです」
 泣きながら訴えるファソンを、カンはやるせなさげに見つめた。
 大妃がせせら笑った。
「大方はそのように夜毎、お閨でお若い主上に泣き縋り、主上を意のままに操っておるのであろう、女狐め」
「母上、この上、我が妻を愚弄するのは、たとえ母上とて許せませぬぞ」
 カンの声音は先刻と異なり、どこまでも静謐だった。普段感情を表に出さない人というのは、怒りが深ければ深いほど、かえって静謐さをその身に纏うものだ。
 恐らく大妃はそれを知らないのだろう。
「何が妻だ、聞いて呆れる。先刻も申したであろう、私は大妃として、内命婦の頂点に立つ者として、そなたを王族とも嫁とも認めるつもりはない。さよう心得よ」
「母上(オバママ)ァ」
 カンが吠えた。まさに、虎の一瞬の咆哮。その叫びは大地と空を揺るがせ、聞く者を震え上がらせるには十分だった。
 大妃に付き従う尚宮と二人の女官はもう顔面蒼白で震えている。
「大妃さま、ここはひとまず大妃殿に戻った方が」
 尚宮が小声で囁くのに、大妃はそれでもまだファソンを睨みつけた。
「大切な国婚を前に、泥棒猫のような娘の色香に血迷ってしまわれるとは我が息子ながら、情けなや」
 カンは大妃ではなく、その背後の尚宮に声をかけた。
「馬尚宮」
「は、はい。殿下」
「大妃さまはかなり御気色が悪いようだ。しばらくは大妃殿でご静養頂くことにする。朕(わたし)の許可があるまで、大妃殿を出られることはまかり成らず。これは王命と心得よ」
「承りましてございます」
 気の毒に、四十ほどの尚宮は震えながら頭を下げ、女官二人に目配せした。
「さ、大妃さま。参りましょう」
 馬尚宮が声をかけるのを合図に、女官二人が大妃の肩を両脇から抱えるように抱く。
「主上、主上はこの母を大妃殿に監禁なさるおつもりか! たかが妖婦に惑わされて、そなたを生んだ母を蔑ろにすると」
 大妃は髪を振り乱し、後ろを振り返りながらわめき散らしながらも、女官らに拘束されて大妃殿に引き返していった。
 大妃一行が見えなくなった次の瞬間、ファソンの身体はふわりと逞しい腕に抱きしめられた。
「済まぬ」
 カンがファソンの髪を撫でた。
「まさか母上がそなたにこのような酷い所業を致すとは考えてもみなかった。私が甘かった」
「うっ、えっ」
 このときばかりはファソンも我慢の限界をとうに超えていた。彼女はカンの腕に抱かれて、泣きじゃくった。
 カンはファソンが泣き止むまで辛抱強くずっと髪を撫で続けてくれた。
  
 夜になった。
 ファソンはいつものように王の寝所に召された。今、二人は寝台に腰掛けている。
「痛むか?」
 カンはファソンの頬にそっと人差し指で触れた。
「痕は残らぬとは思うが」
 ファソンの白い頬にはまだ細く紅い筋がくっきりと残っている。
 ファソンは微笑んだ。
「大丈夫、こんなのは、かすり傷よ。舐めておけば治るわ」
 その言葉に、カンが吹き出す。
「いかにも、そなたらしいな」