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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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「カン。私のことなら、気にしなくて良いのよ。私も一日あなたに逢えなくて淋しいし、ゆっくり話せるのは夜だけだから愉しみにしているけれど―。あなたの執筆の邪魔をしているのなら、淋しいのも我慢するわ」
 暗に寝所に召す回数を減らして欲しいと伝えれば、カンは慌てた。
「いやだ。私だってファソンに逢えない日中は、とても長くて淋しいんだ。夜だけしか逢えないゆえ、夜がもっと長く続けば良いのにと思うことがある」
「黄真伊(ファン・ジニ)の歌にそんなものがあったわね」
 カンは無言で頷き、歌うように続けた。
「あなたに逢えない独り寝の長い夜を切りとって、あなたに漸く逢えた短い夜に縫い付けたい」
 久方ぶりに逢えた恋人と過ごす夜があまりに短いと嘆く女性の切ない恋心を歌ったものだ。?天下の名妓?と今もその名を語り継がれる実在の妓生ファン・ジニりの詠んだ詩である。
「一人で過ごす夜はとても長いのに、二人で過ごす夜は呆気ないほど速く過ぎてゆく。だから、一人で過ごす長い夜を切りとって、あなたと逢う短い夜に縫い付けて少しでも長くしたい」
 ファソンも呟き、溜息を零した。
「今なら、ファン・ジニの気持ちが判るような気がするの」
 そこで、ファソンは我に返った。我ながら、何という大胆な科白を口にしてしまったのだろう!
 これでは?好き?と直截に告白するより、よほど気持ちが丸分かりではないか。
 しかし、カンはファソンの気持ちよりは、切々とした恋情を綴った詩の内容により関心を向けているようだ。
 どうやら、カンはファソンの恋心に気付かなかったようである。そのことに、ホッとしながらもどこかで落胆している自分がいることを、ファソンは滑稽にも哀しくも感じていた。
 ファソンはわざと明るい声で告げた。
「じゃあ、とりあえず?忠孝明道?は元の場所に戻しておくわね」
 つま先立ち書架の最上段に本を戻そうとした時、よろめいた。やはり、わずかに手が届かなかったのだ。
「危ないっ」
 カンが咄嗟にファソンの華奢な身体を受け止めてくれなければ、彼女は床にまともに衝突していたはずだ。
 背中に回された彼の手が熱い。丁度、二人は抱き合うような格好になっている。
「放して」
 やや掠れた声しか出ない。見上げれば、愕くほどにカンの顔が近くにあった。
「いやだ。放したくない」
―何て綺麗な男なのかしら。
 ファソンはカンの美麗な面を見つめる。綺麗なひとだとは思っていたけれど、つくづく美しい男だと改めて思った。
 綺麗に弧を描く眉、秀でた額から筋の通った鼻梁、わずかに切れ上がった眼(まなこ)、薄く形の良い唇。
 よく憶えておこう。いつか、彼の許を去る日が来ても、ずっと逢えなくなっても、彼の顔をいつまでも憶えておけるように、綺麗な面影を心に刻みつけておこう。
 でも、大丈夫だろうか。半日、一日逢えないだけで、こんなにも淋しくて辛いのに、彼にずっと逢えなくなって、私は生きてゆけるの?
 そして、彼に逢えなくなる日は遠くない将来、必ず来る。ファソンは彼と約束したのだ。中殿選びが終われば、彼女はカンの許を去る、と。
 何故、あんな約束をしてしまったのか。どうせなら、中殿選びが終わっても、彼が正妃を娶るまでは側にいると言えば良かったのに。
 そんなことを考える未練な自分がいやだ。
 カンの美麗な面が迫ってくる。唇が重なる予感がして、ファソンはそっと眼を閉じた。
「友達でも良い。何でも良いから、ファソンを手放したくない。好きだ」
 しっとりと重ねられた唇はすぐに離れた。
 ファソンの眼に大粒の涙が溢れる。
「ファソンはそんなに私を嫌い? 口付けられただけで泣くほど嫌なのか?」
 カンの声音には傷ついたような響きがある。ファソンは夢中で首を振った。
 彼への?好き?が、想いが溢れて言葉になにならない。ただ今は、自分も彼の広い背中に手を回して縋り付くしか、ファソンにはできなかった。
―好きよ。私もあなたが大好きよ、カン。でも、あなたは私には遠すぎる男だわ。
 この瞬間、ファソンは国王を愛してしまった自分の悲哀を嫌というほど悟った。
 
 書庫で過ごした時間は思いの外、長かったようである。昼過ぎに来たはずなのに、書庫を出たときは既に長い夏の陽は傾いていた。
 宮殿の幾重にも連なる壮麗な甍が残照に照らされ、黄金色に輝いている。そのはるか上の空の高みをねぐらにでも急ぐものか、数羽の鳥が群れを成して飛んでいった。
「また、近い中にそなたを連れてこよう。それまででも、来たいと思ったら、私に言えば良い。遠慮することはないんだぞ? どうも、も、そなたは慎ましすぎる」
 カンの優しい言葉に、ファソンはまだ涙の雫を宿した瞳でカンを見上げた。カンが眩しげに眼を細めたのは夕陽のせいだけではないのを、恐らくファソンは知ることないだろう。
「そんなに哀しそうな表情をするな。そなたが泣くと、私まで哀しくなる」
 カンは笑い、人差し指でファソンの涙を拭った。ファソンははにかんだように微笑む。
 泣くなと言われて、泣くまいとしているのが判る。人眼もはばからず、抱きしめたいほど可愛いと、カンは頬を緩めた。
 二人は顔を見合わせ、微笑み合った。一緒にいる時間が多くなるにつれ、不思議なことに、会話はなくても二人でいることそのものが何より安らげる時間となっていた。
 二人だけの時間に闖入者が現れたのは、そんな最中であった。ファソンは違和感を感じ、傍らのカンを見た。
 カンは凍り付いたように動かない。訝しげに彼を見つめ、その視線の先を辿ったファソンの眼に、一人の女人が映った。
 美しい女(ひと)であった。年の頃はまだ四十前、恐らくはファソンの母と同じくらいだろう。臈長けたその女性は愕くほど顔立ちがカンと似ていた。その豪奢な身なり、彼に酷似した容貌から、この女性が朴大妃その人であることはファソンにも察しがついた。
 女性の背後には数人の尚宮や女官が控えている。
「これは主上」
 大妃は手のひらを口許に添え、微笑んだ。美しく整え染められた爪がかいま見える。細く白い指に填められた幾つもの玉の指輪が陽光に燦然と燦めいた。
「母上さまにはご機嫌麗しく何よりに存じます」
 カンは実の母に対するとは思えないほど、他人行儀に恭しく頭を下げた。血の通った母と息子なら、無理にここまで冷淡にならなくても良いのではないかと、カンに対して思ったほどだ。これでは大妃が気の毒だと思ったくらいである。
 だが、その認識が甘すぎたとファソンは直に知ることになる。
「母上、申し遅れましたが、この者が」
 カンが傍らのファソンを紹介しようとすると、大妃は手で制した。が、カンは知らぬ顔で続ける。
「この者は新たに我が後宮に迎えた昭媛にございます」
 カンにわずかに背を押され、ファソンはおずおずと前に進み出た。大妃の前で両手を組み、拝礼を行う。
 だが、拝礼の間、大妃はずっとあらぬ方を見ていた。実のところ、ファソンはカンと初めて夜を過ごした翌朝、大妃殿に挨拶に行ったのである。が、頭痛がするとのことで逢っては貰えず、結局、十日続けて挨拶に通っても、対面は叶わなかった。
 大妃がカンを見た。相変わらず、ファソンの方には視線を合わせようともしない。