国王の契約花嫁~最初で最後の恋~
支度を整えたファソンを取り囲むようにして、女官たちの一団が国王の寝所へと導く。大殿に入る前に見上げた夜空には、十三夜のやや欠けた月が静かにファソンを見下ろしていた。
長い廊下を先導の女官が掲げる雪洞の明かりを頼りに進み、見憶えのある扉の前で止まる。
そこには金尚宮や沈内官長、大勢の内官や女官が待ち受けていた。キム尚宮はざっと形式的にファソンの身体を寝衣の上から調べただけで、身体検査はすぐに終わった。
「首尾良く事が運ぶようにお祈りしております。何事も殿下にお任せして下さいませ」
今夜から、ファソンは王の側室となる。これまではキム尚宮の方が格上であったが、明日の朝を境にファソンが主筋になるのだ。キム尚宮の物言いが丁重になるのは当然でもあった。
王が信頼するだけあり、キム尚宮は懐も広く情理を備えた女性だ。はっきりとした素性の知れぬファソンを快く預かり、厳しくも優しく女官としての作法を教え込んでくれた。
ファソンは感謝を込めてキム尚宮に頭を下げた。両側から女官二人が扉を開き、ファソンはその隙間から身をすべり込ませる。
背後で扉が閉まった。ここにはかつて一度だけ来たことがある。女官になってまもない日、金尚宮に薬湯―実は生姜湯を病臥している王に運ぶように命じられたときのことだ。
あの日からまだひと月半ほどしか経っていないというのに、何か随分と昔のような気がする。
相変わらず大きな寝台が奥に見え、王はといえば、傍らの丸卓の前、椅子に座り、手酌で酒を飲んでいた。
「やあ」
ファソンを認めると、カンはいつものように屈託ない笑みを浮かべた。ファソンはいつもと変わらない様子の彼にどこかホッとして、近づく。
「何か待ちきれなくて、先に飲み始めてしまった」
見れば、カンの眼許はうっすらと染まっていた。彼も白一色の夜着姿である。
「支度に時間がかかりすぎたのね」
何しろ王の側に侍る初めての女が現れたということもあり、尚宮や女官たちは張り切って?今宵、玉の輿に昇る世にも幸せな女官?の支度を整えた。
ファソンが立ったままなのに改めて気付いたらしく、カンが笑った。
「ああ、ごめん。座って」
どう? と、盃を差し出され、ファソンは首を振った。
「あまりお酒は飲んだことがないの。私がやるわ」
ファソンは卓の上の酒器を手にし、カンの差し出した盃に注ぐ。
「良いね、こういうのは。何だか夢みたいだ。ファソンとこうして一緒に夜を過ごすことができるだなんて」
それから後もカンは盃を重ねた。干せばまた差し出してくるので、注がないわけにはゆかない。用意された酒器は三つ、二つが空になってもまだカンは酒が欲しいとねだった。
ファソンが注ごうとしないので、焦れた彼はファソンの手から酒器を奪おうとする。彼女は酒器を奪い取ったカンの手を上からやんわりと押さえた。
「飲み過ぎよ」
「そうかな?」
カンは酒を飲んでいる間中、他愛ないことを喋っていた。いつもはどちらかといえば無口で、喋るのは専らファソンの方なのに、今夜のカンはどうもいつもと違っているように見えた。
「あまりお酒には強くないんでしょ、カン」
眼許を染めているカンはいつになく男の色香を漂わせている。美しい男だけに、酔いでほんのりと白皙の美貌を染めている様は凄艶ともいえた。
「ふふ、バレたか」
外見とは裏腹に悪戯を見つけられた子どものようなあどけなさで言い、立ち上がった。カンの身体が一瞬、ふらつく。
「危ないわ、気を付けて」
カンの身体を支え、苦労して寝台へと連れてゆく。大柄な彼と小柄なファソンでは身長差がありすぎるので、支えて歩くのもひと苦労だ。
「おっと」
カンがおどけた声を発し、それを合図とするかのように二人は均衡を崩し、もつれあうようにして寝台に倒れ込んだ。
寝台の上には濃厚な香りを放つ深紅の花びらが一面埋め尽くすかのように散り敷かれている。膚に纏った香油の匂いに加え、寝台から立ち上る花の香りに、ファソンはボウと神経が痺れ、まるで飲んでもいない酒に酔ったかのような軽い酩酊状態になりそうだ。
気が付けば、カンはファソンを逞しい腕で囲い込んでいた。ぬばたまの闇よりもなおも深い瞳が射貫くように見つめている。
「ファソン」
ツキリとした痛みが首筋に走った。いきなり首筋に口づけられ、ファソンは固まった。痛みを憶えたからには、ただ口付けただけではなく、軽く咬まれたのかもしれない。
幸か不幸か、この衝撃でファソンの茫洋とした意識は急速に現実に呼び覚まされた。
「止めて。見せかけだけの結婚だと約束したじゃない」
ファソンの抗議に、カンがふっと謎めいた微笑を刻む。
「見せかけだけじゃない、君が望むなら本物の結婚したって良いんだ」
カンはなおも彼女を見つめる。寝台の枕許では大きな蝋燭が赤々と燃えている。黄金色の蝋燭には国王の象徴である龍がくっきりと刻まれていた。朝鮮国では古(いにしえ)より王は龍の化身とされる。
淡い光を投げかける灯火が、王の端正な横顔を照らし、ファソンを見下ろす双眸に微妙な陰影を刻んでいた。
張りつめた沈黙に押し潰されそうになった時、ファソンは消え入るような声音で応えた。
「―望まないわ」
カンは更にそのままの体勢で見下ろしていたが、やがて、すっとファソンから離れた。
ファソンは急いで身を起こして立ち上がろうとする。と、すかさず背後から抱きしめられた。
カンとぴったりと身体を密着させた状態だ。ファソンは再び身を強ばらせた。
「せめて、これくらいは我慢してくれ。そなたをこの腕に抱くくらいは許して欲しい」
カンはファソンの腰に両手を回し、髪にそっと唇を押し当てる。
カンの鼓動が重ねた身体越しに伝わってきて、同じように高まった我が身の鼓動もファソンの耳に異様に大きく響いた。二つの鼓動は烈しく高らかに重なり合っている。
カンの手がそろりと伸び、ファソンの艶やかな髪にふれた。
「この簪、初夜に付けてきてくれたんだ。セオクから君があの簪を付けたいと言っていると知らされた時、私はとても嬉しかったんだ。私と同じように、ファソンもこの夜を特別なものだと思ってくれていると期待をしてしまった」
「カン、その初夜という言い方は」
本当の結婚ではないのだからと釘を刺そうとすると、カンが?シッ?と止めた。
「ファソンにとっては、そうなのかもしれない。さりながら、私にとっては特別な夜なんだ。特別な女と迎える初めての夜だから」
「―っ」
息を呑んだファソンに、カンの掠れた声が囁いた。
「―好きだ。ファソン。たとえファソンが私を好きでなくても、受け容れてくれなくても、それはそれで良い。無理に君の身体を奪って、それで永遠に心を失いたくはないんだ」
彼はそっとファソンの髪のひと房を掬い、口付けた。刹那、走った鋭い感覚を何と例えれば良いのか。ファソンにはまだその時、それを言い表す言葉を持たなかった。
髪の毛に触れられただけなのに、直接膚を愛撫されかたのような、危うい熱。小さな焔が髪先に点り、それが大き焔となり全身にひろがって、身体ごと彼から与えられた熱に灼き尽くされるかのようだ。
―好きだ。
作品名:国王の契約花嫁~最初で最後の恋~ 作家名:東 めぐみ