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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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 ファソンは唇を噛みしめた。カンは後宮で女たちが無用な争いをするのを見たくないから、正妃一人しか持たないと言っている。つまり、いずれ?形だけの妻?の我が身は後宮を去らなければならないということだ。
 第一、彼が中殿を迎えて他の女と仲睦まじくしているところなんて見たくない。彼はファソンが自分を棄てるなどと言っているけれど、いずれ彼に棄てられるのは自分の方なのだ。
「中殿選びが終わるまでで良いから、私の側室になってくれ。母上には、はっきりと言うつもりだ。惚れた女ができたから、その者を後宮に迎えたいと。自分で選んだ娘以外に娶るつもりはないと告げる」
 ファソンは泣きそうになった。
―私が彼の側にいられるのは、中殿さまの選考試験が終わるまでなのね。
 それでも。ファソンは、どうしても彼の虫の良すぎる提案を断れなかった。
 たとえ偽りの妻でも、短い間だけでも、好きな男の傍に居たい。
 けれど、それも良いかもしれない。意に沿わぬ相手と見合いをさせられそうになり、自分は家を出た。頼みにしていた?さんにも仕事は貰えず、ゆく当てもなく途方に暮れていたところをカンが宮殿に連れてきてくれた。
 仕事と棲む場所を与えてくれた恩返しとでも思えば良い。しかも、自分はカンを好きになってしまった。好きな男の役に少しでも立てるなら、こんなに嬉しいことはない。
 中殿選びが終われば、ファソンは用済みになる。そのときは潔く宮殿を出て、カンのことは綺麗に忘れよう。その頃にはほとぼりも冷めているだろうし、屋敷に戻ったとしても差し支えはあるまい。無理に嫁に行かせようとすれば家出さえしでかす娘だと判れば、両親もこれからは無理強いはしないに違いない。
 ファソンのささやかな反抗にも幾ばくかの意味はあったといえることになりはすまいか。
「判ったわ」
 どうも諦めかけていたらしいカンは、ファソンが唐突に返した返事に眼を見開いた。
「本当なのか、ファソン」
「ただ、これだけは約束して。中殿さまの選考試験が終わったら、必ず私を自由の身にしてね」
「ファソン。やはり、そなたは私の側を」
 言いかけたカンに、ファソンは鋭く言った。
「偽りの関係で、そう長く皆を欺くことは難しいわ。カン、お願いよ。中殿さま選びが終わって私の役目も済んだなら、後宮から私を出してちょうだい。そう約束して貰えるなら、私、しばらく側室のふりをしても良い」
「判った、約束しよう。中殿選びが終わったら、そなたは自由の身だ。それで良いかな」
「ええ」
 ファソンはなおも見つめてくるカンから、そっと視線を逸らした。
「他に何か条件というか、頼みはあるか? そなたも相当の覚悟をして引き受けてくれたのだろうから、何か望みがあるなら叶えるが」
 ファソンは黙って首を振る。カンが吐息をついた。
「欲のないことだな」
 彼はしばらく考えに耽っているようであったが、やがて意気揚々と言った。
「そなたの父御の位階を上げてはどうだろうか。王の妃にふさわしい官職を与えよう」
 ファソンは弾かれたように面を上げた。
「ありがたい話だけれど、遠慮するわ」
「どうして?」
 カンは解せないといった表情である。ファソンは首を振った。
「王が公私混同しては駄目だわ。妃が朝廷の人事に口を出すなんて、絶対にあってはならないことでしょう。ましてや、自分の身内の官職を上げて欲しいだなんて、尚更口にしてはいけないことよ」
 更に、消え入るような声音で続ける。
「それに、これは本物の結婚ではないんだもの」
 私は、あなたの側に居られるだけで、十分幸せなんだから。それ以上のものを望もうとは思わないの。
 ファソンの心の声は届かない。と、同様に、その時、カンがひそかに落とした呟きが想いに沈むファソンの耳に入ることはついになかったのである。
「そなたのような女こそ、中殿にふさわしき器であろうのに」
 カンはやるせなげに呟き、二人はそれからもしばらく黙り込んで歩き続けた。

 月が中天に掛かる刻限になった。
 その夜、初めて王の閨に召される娘がいた。名を陳ファソンといい、十六歳になる。咲き初(そ)めた水仙の花のように清楚で涼やかな美貌は、あと数年待てば、いかほど美しく咲き誇る大輪の花になるかと思わせる美少女だ。
 ファソンは両班の娘ということではあるが、父親は中級官吏で、家門もさしたる勢いはない、要するに問題にならないほどの家であるという専らの噂だ。にも拘わらず、さしたる後ろ盾もないこの娘が丁重に扱われているのは、提調尚宮が後見についており、なおかつ、若き国王自らが町で見初めて入宮させたという経緯があるからだとの専らの噂である。
 提調尚宮は国王の乳母を務めた人である。実の母大妃よりも乳母を慕う国王が最も信頼するのが王の幼年時代から常に王の側にいた提調尚宮と内侍府長の二人であった。そのキム尚宮に託すからには、王がいかほどその娘を大切に思っているかは自ずと知れるものだ。
 後宮内の湯殿でファソンは湯浴みを済ませた。数人の女官たちに寄ってたかって磨き上げられる。緋薔薇(そうび)の花びらがふんだんに浮いた湯船に長時間つかり、湯上がりにはやはり花の香りの香油を丹念に膚に塗り込まれた。
 就寝する際としてはいささか濃すぎる化粧を施され、白い夜着を着せ付けられ、支度万端を整えて国王の寝所に送り込まれる。
 長い艶(つや)やかな髪も洗い立てで、ほのかに花の香りが漂い、洗い髪は横に一つで束ねられている。本来、正室である中殿、側室問わず、彼女らが王の閨に侍る際は、提調尚宮によって入念な身体検査が行われる。それは万が一にも、女たちが王の寝首をかくために武器となる刃物を隠し持つ危険を回避するためでもあった。
 むろん、この夜、初めて夜伽を務める娘に対しても行われたが―。ファソンがどうしても身に付けたいと願った小さな簪は王その人の許可を得た上で、特別に身に付けることが許された。
 その夜、王宮は何とはなしに色めき立っていた。何と言っても、二十一歳の国王には正室はおろか側室の一人もいない。当代の王が即位後、初めて閨に召される女性が現れたのだ。
―これで王室も安泰ですな。
―この上は一日も早く、国王殿下の御子を拝見したいものです。
 若い王が?女に興味を持った?のは風のごとく後宮はおろか宮殿中に広まり、あちこちでそのようなひそひそ話が交わされた。しかし、一方で、このようなことを言う者もいた。
―何故、中殿さまの選抜試験が行われている真っ最中に殿下はわざわざ新しい側室を召されたのでしょうか?
 これまでどれだけ周囲が勧めても、女には食指を動かしもしなかった王。同性愛者とまで囁かれた王がどうして、今、この時期になって初めて女性を寝所に招いたのか―。
 それを疑問に思う者がいて、当然ではあった。そして、その問いに対する応えはまた当然、
―大妃さまに対する挑戦、もしくは反抗。
 と映ったのだ。
 そのような噂が広まれば、必然的に大妃派の大臣や大妃その人からの風当たりが強くなることをまだその時、ファソンもカンでさえもが予測はできていなかった。