国王の契約花嫁~最初で最後の恋~
ファソンが身を捩ると、彼はすぐに自由にしてくれた。解放された刹那、ファソンは無意識に熱くなった頬を手で押さえた。
良かった。このまま彼に抱きしめられていたら、心臓の跳ねる音が彼に聞こえてしまったかもしれない。
「愉しかった。久しぶりに子どもに返ったようだった」
カンが心からの笑顔を見せて晴れやかに笑う。そんな彼の屈託ない笑顔が見られて、ファソンも嬉しかった。国王という重責を背負う人だからこそ、自分と過ごすわずかな時間でも、カンが寛げれば良いなと願わずにはいられない。
既に十日前には新中殿候補の第一次選考試験が宮殿内で行われ、まずは書類審査に合格した少女たちが一同に会した。流石にいずれ劣らぬ名花、美しさと聡明さに裏打ちされた令嬢ばかりで、後宮の女官たちは興味半分嫉妬半分というところで、美しい令嬢たちが宮殿内の敷地を謹厳な尚宮たちに連れられて試験会場へ移動するのを遠巻きに眺めていたものだ。
この一次選考でかなりの数の少女たちは不通、つまり不合格となり、絞られた精鋭たちが次の二次選考に臨む。その二次選考が行われるのは一ヶ月後の予定となっている。炎暑の最中ではあるけれど、栄えある二次選考に晴れて臨む選ばれた令嬢たちはその準備に余念がないことだろう。
自分には生涯拘わりのない世界の話ではあるが、孤独なカンのためにも、この選考で最後まで勝ち抜き選ばれた令嬢が彼にふさわしい女性であることを祈っていた。そう、この女たちの戦いで見事勝ち抜いた女性こそがカンの妻―つまりは中殿となる。
カンの奥さん。中殿、国母という地位には何ら魅力も感じられないのに、何故か彼の妻という立場を考えた時、ツキリと胸にかすかに走った痛みはそも何なのか。カンが妃を迎えると聞いて、どうして、こんなに胸が苦しいのか。その理由を突き詰めて考えてみるのが怖くて、ファソンは無理に考えることを止めた。
願わくば、選ばれた方、中殿さまがカンの淋しさを癒してあげられるような優しい方でありますように。
そんなことをぼんやりと考えていると、カンの声が耳を打った。
「ファソン!」
ハッとして眼をまたたかせる。
「私の顔に何か付いているか? そなたがあまりに見つめるので、顔に穴が空くかと思ったぞ」
と、これはいつもの彼らしい冗談だとは判った。
「それとも、私の男ぶりに見惚れていたとか、惚れ直したとか?」
ファソンは笑った。
「いやあね。自惚れが強すぎる男はモテないのよ」
二人はどちらからともなく並んで歩き始めていた。
「モテるで思い出したが、数日前、初めて中殿候補の娘たちの絵姿と履歴書を見たよ」
言うともなしに呟いた彼に、ファソンは無理に微笑みを浮かべた。
「そう。一次選考に来ていた娘たちでさえ、あれだけ綺麗だったんだもの。更にその中から選りすぐりの方々が二次に残ったわけだから、きっと中殿さまにふさわしい人ばかりでしょうね」
心なしか声が震えた。大丈夫だろうか、今、私は彼の前でちゃんと笑えている―?
「良かった。カンには幸せになって欲しいの。あなたにふさわしい方が見つかることを心から祈っているわ」
物分かりの良いことを言いながら、泣き出したいような気持ちなのは何故? そんなに嬉しげに王妃となるべき女性について語らないで欲しいと願うのは、私の我が儘よね。
ファソンは一旦うつむき、顔を上げた。
「じゃあ、顔を合わせなかった十日ほどの間、カンはずっと中殿候補の方々の姿絵を眺めて過ごしていたのね」
これは冗談のつもりだったが、カンはそうは受け取らなかったようだ。綺麗な眉をはっきりとひそめた。
「そんなわけないだろう。見たとは言ったが、母上さまにせっつかれて仕方なく、一通り眼を通しただけだ」
どうして、彼がそう言っただけで、私はホッとするのだろう?
「そなたの方はどうだ? 宮仕えを始めてそろそろひと月だ。少しは女官の仕事にも慣れたか?」
話題が変わって、胸を撫で下ろし、ファソンは微笑んだ。
「全然よ。さっきも見たでしょ。相変わらず、要領が悪くて金尚宮さまにも叱られてばかり」
ふいにカンがファソンの手を握った。
「カン?」
カンはファソンの手をじいっと見つめている。
「手が酷く荒れている。女官の仕事のせいだな。初めて?さんの本屋で出逢った時、そなたの手はまったく荒れていなかったのに」
ファソンは慌てて彼の手から自分の手を引き抜いた。
「なあ、ファソン。そなたはいずれ名のある家門の娘ではないのか。両班の娘であるそなたが家を出るには相当の覚悟が必要だったはずだ。その理由を訊ねた時、そなたは無理に見合いをさせられそうになったと言っていた。今まで無理に問いただすのは控えていたが、その相手というのはどこの誰なんだ?
詳しい事情を私に教えてくれないか。もしかしたら、力になれることがあるかもしれない」
「それは」
ファソンが立ち止まると、カンも止まった。
少しく躊躇った後、ファソンはひと息に言った。
「実は、私も相手の男のことはよく知らないの」
「何だって?」
ファソンは力ない微笑を浮かべた。
「本当よ。嘘じゃない」
ファソンはカンの表情が翳ったのを見逃さなかった。だが、自分の先ほどの言葉がどうして彼の心をそうまで乱すのかは判らない。
「相手の男も気の毒に、私と同じだな」
「それは、どういう意味?」
「つまり、私も嫁に逃げられたということさ」
ファソンは息を呑む。
「嫁って、今は中殿さまを国を挙げて決めている最中なのよ? それなのに、もうお嫁さんになる女性が決まっているの?」
カンがフと淋しげ笑った。その横顔は酷く切なげで、ファソンは胸が痛んだ。
「だから、正式な嫁じゃない。だが、ほぼ本決まりだったらしい。母上が大乗り気だった娘だそうだから」
そこでまた彼は自嘲気味に嗤った。
「おかしなものだ。私の花嫁を決めるのに、当の私の好みや気持ちは端から無視されている」
「カン―。そんな風に自分を追いつめないで。さっきもあなたは言ったじゃない。二次選考に残った令嬢方の姿絵を見たって。その中に好みの人や逢ってみたい人がいれば、その気持ちを大妃さまにお伝えしてみたら、どうかしら」
「無駄なことだ」
唾棄するような言い方は、いつも穏やかな彼らしくない。
「無駄だって決めつけないで―」
言いかけたファソンに彼は皆まで言わせず、烈しい剣幕で言い募った。
「無駄だ。中殿は私が決めるものではなく、母上や大臣たちが決めるものだから。それに、二次選考の残った娘たちの中に、取り立てて逢ってみたいと思う娘などいなかった」
そのひと言にホッとする自分は、どれほど身勝手で嫉妬深い女なのだろう。ファソンは自分の中に棲んでいる醜いもう一人の自分の存在を初めて知った。
カンは淡々と続ける。静謐な表情は先刻の激した様子が嘘のようだ。
「国王の結婚は国婚とも呼ばれ、自分の意思で伴侶の一人選べない。考えてみれば、王なんて、つまらないな」
「勝手に結婚相手を決められてしまうっていうこと?」
「ああ」
カンは複雑な表情でファソンを見た。
作品名:国王の契約花嫁~最初で最後の恋~ 作家名:東 めぐみ