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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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 しゃがみ込んでいたファソンは立ち上がり、腰や背中を拳で叩いた。
「うー、肩は凝るし腰もだるいし、最低だわ」
 格闘したお陰で、洗濯物はあらかた終わった。後はこれらをすべて干せば終わりである。とはいえ、小柄なファソンにとっては、干す作業もなかなか骨の折れる作業であることに変わりはない。
「痛ーい」
 腰をかがめ、まだ痛む背中と腰をさすっていると、いきなり臀部をつるりと撫で上げられた。
「いやっ」
 思わず悲鳴を上げると、クスクスと忍び笑いが聞こえてくる。どこの色狂いの仕業かと振り返れば―。
「カン!?」
 カン―国王賢宗がその場に立っていた。
「あなたって、そういうことをする男だったの?」
 ファソンは両手を組んで偉そうに抗議する。どう見ても、王さまに対して女官が取る態度ではない。それこそ不敬罪ものだ。
 が、カンは怒るどころか、嬉しげに眼を細めた。
「だって、触って下さいと言わんばかりに尻を突き出していただろ。私だって、男だ。触り心地の良さそうな女の身体を見たら、つい手が伸びて―」
 カンは最後まで言うことはできなかった。ファソンの平手が彼を直撃したからだ。
 パッチーンと小気味の良い音が響き渡り、我に返ったファソンは蒼褪めた。
「私ったら、何てことを」
 ファソンはその場に膝を突いた。
「申し訳ございません、国王殿下」
 幾ら鷹揚なカンでも、ただでは済まないと思った。彼があまりに気さくに接してくれるから、つい友達感覚で対してしまうけれど、彼は王なのだ。ファソンにその自覚が足りなさすぎたのは間違いない。
 立場としてはカンは国王で、ファソンは女官だ。女官は?王の女?といわれ、原則として王の所有物ということになっている。つまり、王は後宮に咲く女官という美しい花を見初めて、いつ何時なりと手折っても良いのだ。
 王に身体を触れられた程度で大騒ぎして、あまつさえ王の玉体に手を上げるなど言語道断だ。
 ファソンはうつむき、込み上げる涙を堪えた。もしファソンが陳ミョンソの娘だと露見すれば、父にまで迷惑がかかってしまう。
「ごめん、ファソン」
 ややあって、カンの心底申し訳なさそうな声が降ってきた。
「私の悪ふざけが過ぎた。そなたの身体が魅力的で触りたいと思ったのは本当だけど、そんなことをするべきではなかった」
 どこまでも正直すぎるカンである。
「さあ、立って」
 カンはファソンの手を取り、立ち上がらせた。ファソンの眼に滲んだ涙を見て、カンは眉をひそめた。
「本当に済まなかった。もう二度としないから、泣くな」
 カンは袖から手巾を出して、ファソンの涙を丁寧に拭いた。
 それから、彼は洗濯物の一つを手に取った。
「お詫びに干すのを手伝うよ」
「ええっ、王さまが洗濯物を干すの?」
 ファソンは二度びっくりし、大きな瞳を見開いた。
「別に王だって人間だし男だし」 
 と、意味深なことを言い。
 カンは手際よく洗濯物を干してゆく。 
 開けた空間には二本の棒が立ち、物干し綱が張り巡らせてある。物干し綱は縦に何列にも並んでいて、カンはその一つに色鮮やかな布をきちんと一枚一枚干していった。
 まさかカンが自ら洗濯物を干すなんて言い出すとは考えてもおらず、ファソンは茫然と眺めていた。が、まさか王一人にやらせるわけにもゆかず、慌てて彼と一緒に洗濯物を干しにかかる。
 カンが干しているのは女官たちの制服や私服だ。幾枚もの色鮮やかなチマが初夏の蒼空にはためくのは壮観でもあった。
「これは私が干すわっ」
 カンが何度目かに手にした洗濯物をファソンは慌てて奪い取った。カンは愕いて眼を丸くしている。
「これはその、男の人に干して貰うわけにはいかないでしょ」
 ファソンはうす紅くなりがら、女官たちの下着を干した。
「なるほど、そういうことか」
 カンは笑い、それ以上の追及はしなかった。王が女官たちの衣服を干すだけでも十分許されないことなのに、下着まで手にしたとなれば、あの沈内官長は怒りのあまり、その場で憤死するかもしれない。
「あなたが女官の服を干しているのを見たら、沈内官長も金尚宮さまもきっと卒倒するわよ」
「確かに」
 カンは笑って頷く。彼のお陰で、山のような洗濯物もあっという間に片付いた。美しいたくさんの色布が風に揺らめくのは一幅の絵のようでもある。
「綺麗ねえ」
 ファソンはもちろん、女官のお仕着せ姿だ。濃紺の上衣と赤色のチマの上から前掛けをつけている。一つに編んだ髪は動きやすいようにくるりと丸めて纏め、これも定められた紅い髪飾りをつけている。
 カンの方はこれは王の正装―天翔る龍を赤地に金糸銀糸で織りだした龍袍だ。
 ファソンの背後で眼にも彩なチマが翻っていた。六月の眩しい陽光が少女の白い膚を輝かせている。
「女官のなりも可愛いが、そなたにはもっと華やかな衣装の方が似合いそうだ」
 カンは眼を細め、ファソンを見つめた。
「あなたに貰った簪も付けられないわ」
 女官は決められたもの以外、一切身に付けることは許されない。カンから贈られた菫青石(アイオライト)の簪はずっと与えられた私室の備え付けの箪笥にしまっている。
 と、ファソンはカンの姿が見えないことに気づき、少し慌てた。
「カン? カン!」
 呼ばわるも、いらえはない。
「カン、どこに行ったの?」
 狼狽え、眼の前にある紅い布をめくったその瞬間、大きな声と共にカンの笑顔が迫った。
「わっ」
「―!」
 ファソンは声にならない声を上げる。
「酷い、また愕かせて」
 彼女は握り拳を振り上げた。カンが笑いながら逃げる。
「怖い怖い。また叩かれて痛い想いをするのはご免だよ」
「待って、待ちなさい。本当に懲りないんだから」
 追いかけるファソンと逃げるカン。若い国王と美しい女官が笑い声を上げながら戯れているところを見れば、まず王の意がその美しい娘にあることは一目瞭然ではあった。しかし、幸か不幸か、その場には誰もおらず、ファソンはただ無邪気にカンと追いかけっこをしているとしか思っていない。
 ひとしきりカンが逃げ回った次は、カンが鬼になってファソンが逃げる番だ。
「待て」
「待てと言われて、待つものですか」
 ファソンは笑いながら背後を振り返り、風にはためくチマを器用にくぐっては逃げる。こういう時、小柄で身軽なのは役に立つ。
 そういえば、子どもの頃には仲の良い女の子たちと追いかけっこをして遊んだ記憶がある。走っていると風になったようで、気持ちが良い。
 だが、ここでもカンの方が一枚上手であった。ふいに姿が見えなくなったかと思うと、蒼色の布が向こうから持ち上げられ、カンがヌッと姿を現した。
「きゃっ」
 愕いた隙に、ファソンはカンに抱きしめられた。
「捕まえた」
「カン」
 カンはファソンを腕に閉じ込め、その黒髪に頬を押し当てた。
「良い香りがする。花のような匂いだ。ファソンは名前のとおり、本当に花の精なのかしもれないな」
 ファソンは逞しい男の腕に囚われて、身じろぎもできない。細身で線が細そうに見えても、やはりこうして抱きしめられてみれば、その体?はファソンとは違い、大人の男のものだ。
「カン。もう良いでしょ、良い加減に放して」