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国王の契約花嫁~最初で最後の恋~

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「あれは、そなたを妬かせてみたくて」
「私を妬かせる?」
 眼をまたたかせるファソンに、カンは破顔した。
「いや、今の言葉は忘れてくれ。それよりも、ファソン。もう少しだけ側にいてくれないか?」
 先刻までの剽軽な様子と異なり、どこか縋るような物言いだ。ファソンは胸をつかれた。
「手を―放して」
 ファソンの手はいまだカンの手の中にある。またしてもあの正体不明の熱がどんどん身体に溜まってきているような気がして、ファソンはカンに頼んだ。
「嫌だ」
「カン」
 咎めるように名を呼べば、カンが綺麗な顔に笑みを浮かべた。
「お願いだ、もう少しだけ、このままで」
 二人はしばらく黙り込み、ファソンはカンに手を握られたままでいた。
「ファソン」
 突如として名を呼ばれ、ファソンはハッと我に返る。
「そなたに見つめられたり、こうして手を握っていたら、何故、私の胸の鼓動が速くなるのか。以前、どうしてなのだろうと聞いたが、そなたは、その理由が判ったか?」
「いいえ」
 ファソンは首を振る。まさか、自分も同じで、カンの綺麗な微笑みを見る度に、もしくは彼にこうして手を握られる度に身体が熱くなるなんて言えるわけがない。奥手なファソンでも、それがはしたないことではないか、という程度の知識はあった。
「私もまだ判らないんだ」
「考えても判らないことは考えるのを止めるのがいちばんよ。カン、少し眠った方が良いわ。私、長話をしてしまって、あなたを疲れさせてしまったかもしれない」
「気にするな。私は愉しかったよ。そなたといると、時間の経つのも忘れるほどだ。もう少し宮殿での暮らしに慣れたら、セオクに頼んで私付きの女官にして貰おうと思っている」
 ファソンはそれには返事をしなかった。後宮の人事には原則として国王も口出しはできないといわれている。王妃がいる場合は王妃が決めるべきであり、王妃不在の今は、大妃の裁量で決められるはずだ。ここで新米女官にすぎないファソンが迂闊に応えられる問題ではなかった。
 カンもファソンからの応えは期待していなかったようで、すぐに話題を変えた。
「もう一度、あの歌を―子守歌を歌ってくれぬか」
「はい」
 ファソンは応え、母がよく幼時に歌ってくれた子守歌を歌い始めた。
「私の大切な吾子はどこから来た。吾子は天からやって来た。吾子はどんな金銀財宝よりも大切な宝物。吾子よ、私の吾子よ、天から下された大切な宝物よ」
 繰り返して歌う中に、カンは規則正しい寝息を立て始めた。
 ファソンはカンのどこか無邪気ともいる寝顔を見つめ、そっと彼の手から自分の手を抜いた。
「カンは子どもの頃から今もずっと淋しいのね」
 それにつけても、ファソンは我が身の子ども時代を思った。母は一人娘のファソンのことしか頭になく、何かにつけては口うるさく干渉してくる。しかし、七歳になるまでは毎夜のようにファソンが眠るまで側にいて、子守歌を歌ってくれたものだ。
「私はまだ幸せだったのね」
 優しい両親に恵まれ、何不自由ない暮らしをしていた。カンは王という至高の立場にいながらも、実の母大妃とは心通わせられず、淋しい子ども時代を送ったようだ。
 その時、ファソンは家を出て初めて両親のことに想いを馳せた。今頃、父も母もどうしているだろうか。こちらから断れないほどの身分の高い相手との見合いだったというのに、自分勝手に屋敷を出てしまい、どれだけ両親に迷惑をかけたかしれない。
 何故、そこに今まで思い至らなかったのだろう。けれど、今更、おめおめと屋敷に戻ることもできはしない。第一、帰ればまた見も知らぬ男と見合いをさせられるに違いない。
 ファソンは切なげな溜息をつき、カンの寝顔を見た。
「おやすみなさい。せめて愉しい夢を見てね」
 心淋しく哀しい子ども時代を過ごしたというカン。せめて彼が結ぶひとときの夢の中では心愉しく過ごせますように。哀しい想いはしませんように。
 祈るような気持ちで今度こそ立ち上がり、彼女は国王の寝所を静かに退出した。
  
 一方、ファソンが両親のことを思い出していたその頃、陳家の屋敷では当然ながら大騒動になっていた。
 陳氏の当主ミョンソの居室では、夫人のヨンオクが刺繍入りの手巾を握りしめ、派手に泣いていた。
「あなた(ヨボ)、ですから、私は最初から本当のことをあの子に話した方が良いのではと申し上げたのです」
「さりながら、ヨンオク。あのお転婆な娘の性格を考えてみろ。真実を話したとて、余計に反発するのが関の山ではないか」
 ミョンソが大きな息を吐いた。
「困った娘だ。このままでは、我らは不敬罪に問われかねんぞ。一体、彼(か)の方にどのようにお詫びすれば良いものか。私の首一つで済めば良いが、下手をすれば陳氏の家門そのものが危うくなるやもしれぬ」
 ヨンオクが金切り声を上げた。
「大監は先刻から、家門のことばかり。私は家門よりもファソンの身の方が心配でなりません。可哀想に、無理に見合いをさせられると思いつめ、川にでも身を沈めたのではないでしょうか。もし、そうなのなら、もう、この世には生きてはいないでしょう。哀れな私の娘!」
 ヨンオクが芝居がかった動作で泣きじゃくる。
 ミョンソは苦虫を噛みつぶしたような表情で言う。
「そうは申せど、私よりもこの縁談に乗り気だったのは、そなたの方ではないか、夫人(プーイン)。見合いの前夜もファソンに断れぬ話だと申していたであろう」
「それは確かにそのように申しましたれど」
 ヨンオクが手巾を握りしめ、口ごもる。
 ミョンソはやれやれというように首を振った。
「だが、案ずるな。我らの娘に限って、世を儚んで入水などするはずがない。ファソンは殺されたって死ぬような娘ではない。あの逞しい娘のことだ、きっと、どこかに潜り込んで何とかやっておるだろうて。さあて、ファソンを見つけねばならぬのは山々ではあるが、ここはまず、勝手に娘が行方を眩ませた言い訳をどう言い繕うか考えるのが先だ」
 ミョンソとヨンオクは顔を見合わせて、深い息をつくしかなかった。

  契約結婚と本物の恋

 ファソンは溜息をついた。ここ一刻ばかりの間に、これがもう何度めか知れない。
「これが新参者いびりというものなのね」
 呟き、すっかり力が入らなくなった手に力をこめる。側には洗い上がった洗濯物の山、また山である。
 ファソンが女官になって、はや、ひと月。暦はいつしか六月に入っている。彼女は提調尚宮直属の女官として仕えているものの、最初はその金尚宮に遠慮していた先輩女官たちも今では、妬みと敵愾心(ライバル心)をあからさまに剥き出しにするようになった。
 現に、こうして毎日、山のような洗濯物を押しつけられ、一日の半分を洗濯物と格闘している有り様である。
 キム尚宮の許に食事を運んでいる最中には、わざと脚を引っかけられたりチマを引っ張られたりで無様に転び、膳の物を駄目にしたこともある。当然、賄い方の女官にはさんざん嫌みを言われ、作り直した物を運ぶ羽目になった。
 上流両班の息女として育ったファソンは、洗濯など実は一度もしたことがない。慣れない仕事は尚更、手間も時間もかかるのは当たり前のことだ。