国王の契約花嫁~最初で最後の恋~
ファソンは寝台の側に置いた小卓を見た。鮮やかな牡丹色の風呂敷を取り去ると、湯飲みに入った薬湯と口直しの甘い菓子が載っている。
「でも、この分じゃ薬湯を飲む必要もなさそうね。心配して損しちゃった。元気すぎるくらい元気じゃないの」
呆れたように言うのへ、カンは悪戯っぽく笑った。
「あれ、何か悪寒がしてきた。熱がまたぶり返したのかもしれない。自分では薬が飲めないから、ファソンが飲ませてくれ」
「なっ」
ファソンは両手を腰に当てた。
「言うに事欠いて、飲ませろですって。そんなに元気が有り余ってるのに。自分で飲みなさいよ」
「ああ、咳が出る」
わざとらしくコホコホと咳き込んで見せるのに、ファソンは大きな溜息をついた。
「仮病なのは判ってるのよ?」
「苦しい。薬を」
ファソンはこれ見よがしに息を吐いた。
「しようがない人ね」
小卓に乗っている匙を取り上げ、湯飲みから薬湯を掬う。匙は毒に反応する銀製だ。
「はい、口を開けて」
「あーん」
カンは親鳥から餌を貰う雛よろしく大きな口を開けている。その嬉しげな表情に、ファソンは呆れて何も言えなくなった。
「はい、もう一度」
「うん」
にこにこと口を開け、ファソンは匙で薬湯をカンに飲ませる。そんなことを繰り返し、漸く薬湯はすべて終わった。
「ああ、幸せだ。ファソンに薬を飲ませて貰えるなんて思ってもみなかった」
満足げに言うカンに白い手巾を渡す。と、彼はニッと笑う。
「ああ、本当に子どもなんだから」
ファソンは歯がみし、カンの手から手巾を奪い取り、口の周りについた薬湯を拭ってやった。
「何でもキム尚宮さまは、これが特別な薬湯だとおっしゃっていたけど」
ふと思い出して言うと、カンが笑った。
「セオク特製の薬なんだ」
セオクというのはキム尚宮の名前だ。今でも母のように慕っている乳母を王は名前で呼ぶ。
「キム尚宮さま特製の?」
「ああ、実は薬湯ではなくて生姜湯」
「ええっ」
カンは相変わらず笑みを浮かべている。
「私は幼いときから御医が調合した薬が苦手でね。よほど酷いとき以外は、セオクが作ってくれた生姜湯を薬代わりにしてきたんだ」
「我が儘な王さまね」
「我が儘ついでにもう一つ、薬湯の後は口直しの甘い菓子が食べたい」
ファソンは笑い、軽くカンを睨んだ。
「薬じゃないなら、必要ないでしょ」
「そう言うなよ。ほら、あーん」
と、また口を開けるので、ファソンはもう自棄気味に綺麗な花を象った干菓子をそのまま口に放り込んだ。
「む、くぐ」
カンは眼を白黒させている。
「これが私から我が儘な王さまへの罰」
カンはひとしきり噎せた後、恨めしげな眼でファソンを見た。
「負けず嫌いな女だなあ」
「当たり前よ。生姜湯も飲み終えたし、私はこれで帰るわね」
「待ってくれ」
カンの様子がどうにも必死だったので、ファソンは脚を止めた。
「まだ何か用事がある?」
「頼みがあるんだ」
「なあに」
「歌を歌って欲しい」
「どんな歌?」
カンは少し押し黙った。
「笑わないか?」
「ええ」
「子守歌」
ファソンは眼を見開いた。
「私が知っている子守歌なんて、一つくらいしかないわよ」
「何でも良い」
ファソンは頷いた。
「また熱が上がるといけないから、横になって」
「うん」
素直に横になったカンの上から掛け衾(ふすま)を掛け、ファソンは寝台の枕辺に浅く腰掛けた。
「私の大切な吾子はどこから来た。吾子は天からやって来た。吾子はどんな金銀財宝よりも大切な宝物。吾子よ、私の吾子よ、天から下された大切な宝物よ」
朝鮮に古くから伝わる伝統的な子守歌であり、上は両班から下は庶民に至るまで、よく歌われるものだ。
「私が子どもの頃、母がよく歌ってくれたの」
ファソンは歌い終えると言った。
「そうか。ファソンは幸せだな。私はセオクがたまに歌ってくれたくらいで、実の母の子守歌なんて聞いたことはないよ」
「カンのお母さまって、朴大妃さまよね」
「―ああ」
カンは頷いた。親代わりの沈(シム)内官やキム尚宮のことになると嬉しげに話すのに、実の母大妃については浮かない顔で口を閉ざすのは気になった。
「ファソン。私は一度だって王になりたいと願ったことはないんだ」
カンの突然の吐露に、ファソンは眼を見開いた。
「でも、前王さまの御子はカン一人だったんでしょう。望むと望まざるに拘わらず、カンが王位を継ぐのは宿命だったのね」
「本当にそうだろうか」
え、と、ファソンは問い返した。
「ファソン、おかしいと思わないか? 父上は母以外にも五人の側室を持っていた。その中の誰にも子ができなかったのは不自然すぎる」
流石に、ファソンにもカンの言いたいことの意味は判った。
「誰かがわざと他のご側室たちに御子を産ませまいとしたというの?」
「そういう噂が後宮には流れている。私の母が身籠もった側室を流産させたと」
?(くら)い声音で呟くカンに、ファソンは絶句した。
「後宮は怖ろしいところだ、ファソン。もしかしたら、私にはたくさんの弟妹がいたのかもしれない。母は何人の罪なき生命を犠牲にして、私を王位につけたのだろう。私は兄弟を犠牲にしてまで、王になりたくはなかったのに」
「カン、思いつめないで。あくまでも、噂の域を出ない話なのだし。それに、あなたは前の中殿さまのただ一人の王子さまだったのだから、たとえ他にご兄弟がいたとしても、あなたが王位を継いだことに変わりはなかったと思うわよ」
そこで、ファソンはカンから怖ろしい事実を聞かされた。幼き彼がかいま見た雪の日の惨劇、前王の側室が懐妊中、大妃の嫉妬のために雪の上に席藁待罪(ソツコテジェ)し鞭打たれた挙げ句、流産したこと、挙げ句にその側室まで亡くなったことを。
あまりの陰惨で残酷な話に、ファソンは言葉もない。
カンは?い声で続けた。
「父は母の暴挙を見て見ないふりをしていた。今では私も母を遠ざけた父の気持ちがよく判る。だから」
カンは両手で顔を覆った。
「私は後宮なんて持ちたくないと思ってきた。さりながら、子どもだったときはともかく、成人した王として、それは許されないことだ。周囲は皆、早く中殿を迎えろとせっついてくる。もし、どうしても妻を迎えろと言うのなら、せめて母のような残酷なことはしない―心優しい娘を中殿に迎えたいと願っている。父のようにたくさんの側室を持って無用の争いは起こしたくないゆえ、側室を持つつもりはない」
ファソンは大きく頷いた。
「カンの言うことは判るわ。中殿さまといえば、国の母となるべき方だもの。大丈夫よ、あと数日中には中殿さまを選ぶ選抜試験が始まるわ。今回はたくさんの応募者がいると聞くから、きっと徳の高い国母にふさわしい令嬢が見つかると思う」
力づけるように言うと、カンが弱々しい声で言った。
「そうかな」
「ええ、大丈夫。カンの奥さんにふさわしい娘がきっといるはずよ」
「一つ訊いても良いかな」
「なあに?」
「ファソンは何故、家を出たりしたんだ?」
ファソンは微笑んだ。
「見合いをさせられそうになったの」
「見合いを?」
作品名:国王の契約花嫁~最初で最後の恋~ 作家名:東 めぐみ