国王の契約花嫁~最初で最後の恋~
興奮して訊ねれば、内官は哀しげに首を振るばかりだった。王妃から箝口令が敷かれていたらしく、幼い東宮に真実を教えてくれる者は誰一人いなかった。
その側室は
―王さまばかりか、また幼い世子さままでをも誑かそうとした。
と、大妃(前中殿)に仕える尚宮から鞭打たれ、流産し、彼女自身も流産後、息を引き取ったという話だった。
我が母ながら、何という酷い所業をするのか。彼が後にも先にも母の烈しい嫉妬を目の当たりにしたのは、そのときだけだった。しかし、そのただの一度は彼の女性不信を決定づけるのには十分すぎた。
若い王と実母である朴大妃との関係は、そういう経緯もあり、微妙なものだ。大妃は一人息子を溺愛しているが、当の息子は母に対して常に一定の距離を置いている。むしろ、王が物心つく前から養育に当たった守り役の沈内官長(内侍府長―内官を統括する部署の長)や今は提調尚宮となっている乳母の金尚宮らの方をよほど信頼し、心を開いている。
王が十八歳の頃、やはり、廷臣たちから国婚についての議題が提出され、王自身が参加しての御前会議で何度も話し合われたが、当の王はのらりくらりと交わすばかりで、これも話はうやむやになった。
だが、賢宗が二十一歳になったこの年早々、ついに痺れを切らした廷臣たちと大妃が共謀して王には無断で禁婚令を発布した。これは国婚(王の結婚)のため、朝鮮国中の八歳から十七歳までの適齢期の両班の子女に対して、この間は無断で結婚してはならないというものだ。
あと半月も経たない中に、新しい中殿を決めるための選考試験が始まる。選考試験は志願者・推薦者を含めて全員に対して数度に渡って行われ、最終(四次)選考まで残った娘たちが次に大妃や議政府の高官たちの前で一人ずつ面接試験を受け、その中から一人選ばれた令嬢が中殿に冊立される。
また、最終選考まで残った令嬢たちはそのまま当代の王の後宮に入ることは決定済みで、彼女たちはそれぞれ実家の家門にふさわしい位階を側室として賜る。
長らく我が娘を中殿にと虎視眈々と窺ってきた両班たちは今こそと我が娘たちを中殿候補にと名乗りを上げてきている。早くも志願者は見込み数を軽く越え、選抜試験の担当者たちは令嬢たちの履歴書などを一枚一枚眼を通すのに大わらわであった。まず書類選考で不合格となる気の毒な令嬢もいるのだ。
新中殿の志願者の異例の多さは、当代の国王の結婚に対する関心がそれだけ大きいことを物語っていた。
もっとも、相も変わらず肝心の若き国王は自分の花嫁選びだというのに知らん顔で、まるで関心がなさそうである。
その重圧からというわけでもないだろうが、その頃、賢宗は熱を出して寝込んだ。どうも軽い風邪を引き込んだのを甘く見たのが良くなかったようだ。
その日、ファソンは金尚宮に言われ、大殿の寝所で病臥している王の許に薬湯を運ぶことになった。後宮の女官として働くようになって十日余りが過ぎたある日のことだ。
通常、正式な女官には見習い期間を経なければなれない。が、ファソンの場合は公にはしていないものの、国王自らの推挙ということもあり、見習いではなく正式な女官として仕えることが決まった。これは極めて破格の待遇である。
提調尚宮は一つの殿舎を賜っているため、ファソンは女官長預かりということで、キム尚宮の下で女官として必要な礼儀作法や実務などを学びながら、色々とキム尚宮の身の回りの雑用をこなしていた。
大殿の磨き抜かれた長い廊下を小卓を掲げ持って静々と歩きつつ、ファソンは首を傾げた。
大殿にも専属の尚宮や女官はいるのだから、何もわざわざ他の殿舎で働く自分がやる仕事でもなかろうに。そういう疑問があった。よもや国王の方からキム尚宮に
―たまにはファソンの顔を見たいゆえ、こちらに寄越してくれ。
内々に頼まれたキム尚宮がファソンを王の許にやる口実だとは想像だにしない。
天翔る龍が彫り込まれた重厚な両開きの扉が見えてきた。国王の寝所である。扉の前に数人の内官や尚宮、女官が控えている。その中には例の?爺?こと沈内官の顔もあった。
あの老人とはどうも最初の出逢いが良くないが、今やファソンは後宮で働く女官である。
大先輩の内官長に面と向かって敵意を露わにするほど、ファソンも子どもではなかった。
ファソンの姿を認め、沈内官が小さく頷けば、若い女官二人が両側から扉を開いた。
「陳女官が薬湯をお持ち致しましてございます」
沈内官の声と共に、ファソンは静かに寝所に入った。背後でまた扉が閉まる。
室の奥に大きな寝台が見えるが、ここからでは絹布団の山が見えるだけだ。もしかしたら、カンは眠っているのかもしれない。だが、薬湯だというからには起こしてでも飲ませた方が良いのだろう。
そう判断して寝台に近づいた。カンは子どものように布団を引き被っている。
「―殿下」
遠慮がちに呼びかけると、いきなり山のような布団が勢いよく跳ね上がった。
「きゃっ」
あまりに愕いたので、らしくない悲鳴を上げてしまい、ファソンは慌てて両手で口を覆った。
「な、なに。愕くじゃないの」
と、これはおよそ至高の立場の人に対する物言いとは思えない口調で抗議する。
「ふふ、これはちょっとした罰だよ」
カンは満面に笑みを湛えている。
「罰ですって? 一体、私が何をしたというの」
「少しは私のことを思い出してくれた?」
「はあ!?」
ファソンは何とも間の抜けた声を出した。カンの言おうとしているところがさっぱり判らない。
「十日もファソンの顔を見ていない。その間、私は君の顔を思い出しては切ない溜息ばかりついていた。ファソンに見つめられたときの、あの胸の鼓動が速くなるのも懐かしいと思ったほどだったんだ」
「―」
カンの科白は極めて意味深だ。こんな科白を他人に聞かれたら、恋人同士の熱い告白と勘違いしかねないところだが、生憎とファソンは難しい書物は読めても、恋愛にかけては超奥手であった。
カンが滔々と告げている科白の意味にどれほど重大な意味があるかは理解できていない。
「逢えない間、私はファソンに逢いたくて堪らなかった。ファソンは私に会えなくて、淋しくなかったのか?」
なので、言葉そのものを素直に受け取り返事をした。
「もちろん、逢いたいと思ったわよ。だって、この広い宮殿ではカンしか知っている人がいないんだもの」
最初の科白では歓びに眼を輝かせたが、次の瞬間にはカンは肩を落とした。
「何だ、ファソンが私に逢いたいというのは、そういう意味だったのか」
「そういう意味って、他にどういう意味があるっていうの?」
生真面目に問うファソンに対して、カンは淡く微笑した。
「いや、良いんだ。今はまだ、それで良い」
カンはまた意味不明の言葉を独りごちた。
「だから、罰だというんだ」
「え?」
「私一人がファソンに逢いたいのを我慢して、ファソンは私のことをろくに思い出しもしてくれなかったことへの罰」
「カンの話はよく判らないわ」
ファソンが肩を竦めると、カンはまた笑った。その時、ハッと自分の大切な任務を思い出す。
「そういえば、キム尚宮さまに頼まれて、薬湯を持ってきたのよ」
作品名:国王の契約花嫁~最初で最後の恋~ 作家名:東 めぐみ