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銀の十字架(クロス)

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2.『銀の十字架(クロス)』 改・補稿版



 とある国の、とある港町。
 まるで時が止まってしまったかのように重苦しい空気に覆われたこの町に、そのナイトクラブはひっそりと存在している。
 派手なネオンサインはなく、一枚板の看板ひとつが街灯に照らされ、彫り込まれた店名が黒い影を刻んでいる。
 窓には鎧戸が嵌まり、入り口には年輪が浮かび上がった重々しい一枚板の扉。
 冷たい風が吹く人通りの途絶えた路を歩いてこの店に辿り着き、この扉を押した男達は、暖かな空気と穏やかに流れる時に迎えられる。
 男達の夢と涙が沁み込んだテーブルを見守るのはキャンドルグラスの柔らかな炎。
 決して豪華ではないが座り心地の良い椅子が疲れた心と体に一息つかせてくれる。
 そして静かに流れるピアノと歌声が、ゆったりと時を流れさせている。
 そんな温かく落ち着いた雰囲気と美味い酒、それだけが取り得の店だ。

 そして、この店の専属歌手もまた店と溶け合う。
 いつも決まって黒いドレス。
 ほのかな明かりに照らされたステージでは、黒いドレスは闇に溶け込んで、彼女の白い顔と腕だけが浮かび上がり、彼女の首から下がる銀の十字架は鈍い光を浮かべる。
 そして、彼女は低めの少しだけハスキーな声で、大人の想いをしみじみと歌い上げる。
 年の頃なら三十代半ばと言ったところだろう。
 若さに頼った華々しさはない、しかしその背中は、ある程度の年輪を重ねて様々な経験も積んで来たであろう事を物語っている。

 ピアノ弾きはまだ若い、物静かな感じの青年。
 その繊細なタッチの音色は歌手の歌にしっとりと寄り添う、抱きしめるのではなく後ろからそっと肩に手を置いている、そんな微妙な距離感を保って。

 だが、店を埋めた客のほとんどは軍人だ。
 それも占領国の……。

 そう、この国は二年前に隣国の侵略を受け、今もその占領下にある。
 そして、その時熾った火種は今や二国間に留まらず、世界中に火の粉を撒き散らしている。
 いつ世界大戦に発展してもおかしくない、そんな時代の大きなうねりの中では、この店などは波にもまれる木の葉と同じ……。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

「この歌を知っているか?」
 歌手が愛の歌を一曲歌い終え、暖かな拍手に包まれた時、一人の兵士が立ち上がり、勇ましいばかりの軍歌を歌い始めた。
 場の空気に到底馴染むことのないその歌声は、店を埋めた占領軍兵士達の間にすら白けた空気を流す、しかし、彼は構わず歌い続けた。
「どうだ? 知っているな?」
「いいえ、あいにく存じ上げません」
 歌手は低く、しかしはっきりと答えた。
「ならば今覚えろ、今覚えて歌うのだ」
 兵士はなおも軍歌を歌い続ける。
 客席から不満の呟きが流れたが、兵士がきつい目で睨み付けると、小さな声で唱和する者が現れ、歌声は次第に大きくなって行った。

「今の歌だ、本職の歌手ならばもう覚えられただろう? ピアノ弾き、お前もだ、さあ、ピアノを弾け」
 兵士はピアノ弾きに迫り、彼はゆっくりと鍵盤に手を置いた。
 しかし、ピアノから流れ出たのは軍歌ではなく、祖国を取り戻そうとする男たち、隣国の占領に対するレジスタンス達の間に静かに広まっている歌。
 それと気付いた兵士は顔を真っ赤に染めて怒鳴った。
「やめろ! 我が国の歌は弾けないというのか、歌えないというのか! その歌をやめないと言うのならば我が国への反乱とみなして治安部隊を呼ぶぞ! それでも良いのか? こんな店は一ひねりで潰せるのだからな!」
 その言葉に歌手とピアノ弾きは言い返すことが出来ない。
 歴史ある、愛する街を無残に破壊された記憶が蘇る……敵国の、しかも軍歌など弾きたくない、歌う訳には行かない……しかし、このままでは本当に店に危害が及ぶかもしれない……。

 その時、黒いスーツに身を包んだ、白髪の男が進み出た。
「どうぞ……この店を潰すと仰るのならそうなさい……力には屈しましたが、心まで売り渡したわけではありませんので」

 歌手の代わりに兵士の脅しを突き放したのは、この店のオーナー。
 静かな様子で、しかしキッパリと言い切った。

「言ったな、それでも良いのだな?」
 兵士は怒りに顔を朱に染めて言う。
「申し上げたとおりです、私の店で軍歌など放歌しないでいただきたいものです、まして、私どもの歌手にそれを歌う事を強いることなど出来ません、いや、断じていたしません」
「我々はやると言ったら本当にやるぞ!」
 オーナーの静かな、しかしはっきりとした拒絶に、兵士は怒りにわなわなと震えながら言い放った。

 その時……。
「やめないか」
 店の隅のボックスから低い、しかし毅然とした声が飛ぶ。
「なんだと!?」
 怒りに顔を紅潮させて振り返った兵士だったが、その顔は見る見る青ざめて行く。
「た……大佐殿……」
「皆この店に彼女の歌を聴きに来ている……私もそうだ、その楽しみに水を差す事は許さんぞ」
「クッ……」
 兵士はきびすを返すとツカツカとドアに向かう。
 その背中に、大佐は顔も向けずに言葉のナイフを投げつけた。
「出て行くならば勘定を置いて行け、お前に酒を奢ってやろうとは思わないのでな」
 兵士は忌々しげに札を取り出し、投げ捨てるようにして出て行った……。

 床に舞い落ちたその札を拾い上げて、オーナーに差し出したのは大佐だった。
「すまない……あの男もあの男なりに愛国者ではあるのだ、その愛国心の発露の仕方に問題はあるが……許してやってくれ、もう騒動は起こさせないと約束する、だから歌を続けてくれるかね?……」
「かしこまりました……騒ぎを収めていただいたお礼にズブロッカなど差し上げたいのですが……」
「いや……コルンは置いているかね?」
「……はい、ございます」
「ならばそれを貰いたいな……だが、騒ぎを起こしたのはこちらだ、勘定は取ってくれ」
「そう仰いますならば……」

 オーナーが歌手とピアノ弾きに頷きかけると、店にはまた静かに歌が流れ、穏やかな空気が戻った。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

「一杯つきあって貰える?」
 店が終わり、ピアニストが帰り支度を始めていると、歌手が二つのグラスとボトルをテーブルに置いた。
 歌手の名はイレーヌ、ピアニストの名はステファン。
 
 ステファンには願ってもない誘いだった。
 彼は明日の朝、『森へ行く』と決めていたから。
 二年前、祖国を護る戦いに敗れた後、森の奥深く、密かに反乱軍が組織され、徐々に力を蓄えながら祖国を取り戻す機会をうかがっているのだ。
 今夜が最後の伴奏……しかし、彼はイレーヌにそれを知られたくなかった、何も言わずに、いつもの通りにおやすみを言って別れるつもりだった。
 しかし、彼女の方から誘ってくれるのであれば、密かに、しかし存分に別れを惜しむことが出来る。

「さっきはありがとう」
 イレーヌは二つのグラスに赤い酒を注ぎながら口を開いた。
「え?」
作品名:銀の十字架(クロス) 作家名:ST