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銀の十字架(クロス)

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「あの軍歌を弾かなかったでしょう? その代わりにあの歌を……あなたなら一度聞けば軍歌の伴奏くらいはわけなかったはずよ、もしピアノが流れても私は歌うつもりなどなかったけど、そうしていたらどうなっていたことか……」
 確かにその通り、単純な軍歌くらいなら一度聴けば和音進行くらいはすぐにでも覚えて弾く事など造作もないことではあった……しかし……。
「いえ、礼を言うならオーナーにでしょう、それとあの大佐にも……僕もあの曲を弾きたくはなかっただけですよ」
「そうよね……あなたも同じよね……」
 イレーヌは遠くを見つめるような目でつぶやいた。
 ステファンには、その視線の先にあるものがなんなのかわかる。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 かつては彼女も黒いドレスばかり着ていたわけではなかった、と言うよりも祖国の国旗にちなんだ燃えるような赤のドレスがトレードマークだった。
 その頃はこの店の雰囲気も今とはだいぶ違っていた。
 イレーヌの歌う愛の歌が心に染み入り、それぞれが愛する女への想いを深めるものであることに変わりはない。
 しかし、店が終わりに近付き充分な酔いが廻ると、男たちはイレーヌの先導で祖国の美しい自然を、歴史ある街並を、心優しい女たちを、そしてそれらを護り続けて来た勇敢な男たちを讃える歌を声を合わせて高らかに歌い、高揚した心持ちで家路に着いたものだった。
 男たちは皆、美しく、たおやかで、輝く笑顔を持つイレーヌに恋をしていた。
 しかし、イレーヌが恋したのはただ一人、陸軍大尉のアダムだけ。
 それでもアダムを羨みこそすれ、妬む者は誰一人いなかった、誰もがイレーヌとアダムは祖国で一番の似合いのカップルだと認めていたのだ。
 二人は祖国の美しさと、勇敢で気高い強さの象徴だった。
 
 そして二年前……。
 隣国からの軍靴の音が祖国に迫って来た。
 アダムは祖国を守る戦いに臨む直前、この店でイレーヌの歌と祖国の酒に酔いしれ、恋人と友人達とのしばしの別れを惜しんだのだった。
 その時、音楽を学ぶ学生でありながら、既にイレーヌの伴奏者でもあったステファンも入隊を志願した。
 しかし、アダムに諭されたのだ。
『君はまだ若く、才能に恵まれている、いずれ祖国になくてはならぬピアノ弾きにきっとなれる、銃を持つことだけが戦いではない、君には君にしか出来ないことがあるじゃないか……そもそも君が入隊してしまったら誰がイレーヌのためにピアノを弾くというのだ』……と。

 そして、その夜を最後にアダムがこの店を訪れる機会は永遠に失われてしまい、その日を境にイレーヌから輝く笑みは消え、黒いドレスと銀の十字架しか身につけなくなった。

 ステファンはアダムの言葉を胸に、今日までイレーヌの為に、イレーヌの歌を愛する男達の為にピアノを弾いて来た。
 しかし、今やもう祖国の男が店に来る事はほとんどない。
 占領され、抑圧されたこの国では、男たちは家族を飢えさせないために、寒さに凍えさせないために身を粉にして働かなくてはならない、そして守るべき家族を持たない者のほとんどは森に身を潜めているか、もう死んでいるかのどちらかだ。
 祖国の男たちをピアノで勇気付けることが出来なくなった以上、ステファンには銃を持つ以外に戦う術はなく、今となってはそうすることにためらいはない。
 ピアノ弾きはきっとまた現れる……しかし、そのためには祖国が平和で穏やかでなければならないのだから。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

「この十字架ね……彼からの贈り物なの」
 イレーヌは十字架を首から外し、いつくしむように指で撫でる。
「彼もお父様から贈られたそうよ……お父様も軍人でね、この十字架を身につけて全ての戦から無事に戻った……だから息子が陸軍に志願した時、無事に還るお守りとしてこれを渡したの……」
 確かに女性が身につけるものとしては少し大ぶりだし、彫りが深い銀製なのでところどころ黒ずんでいる……しかしその話を聞けばその黒ずみにさえ祖国を愛し、護って来た家の歴史を感じる……。
「でもね……あの戦に向かう時に彼はこれを私に……」
 ステファンが二つのグラスにワインを注ぐと、イレーヌはそれを一口飲んで話を続けた。
「もちろん断ったわ、だって彼にとっても幸運の十字架、お守りだもの……でも、彼はどうしてもと言い張ってこれを私に握らせたわ」
「それはもしや……」
「彼ね、私に言ったの、君はどんなことがあっても生きてくれ、そしていつまでも変わらずに歌ってくれ……ってね」
「……」
 ステファンは何も言えなかった。
 隣国との戦力の差は明らかだった、アダムにはわかっていたのだろう、自分は戦場から還ることがないという事を。
 だからこそ幸運の十字架を彼女に……。

 イレーヌはしばらく十字架を撫でていたが、それをテーブルに置くとステファンの方へそっと滑らせた
「……あなた、森へ行くつもりなんでしょう?」
「……」
 その問には沈黙が答えになる事はわかっていた、しかし、彼女に嘘はつきたくはなかった。
「だからこれをあなたに持って行って欲しいの……肌身離さず着けていて頂戴、勇敢に戦ったアダムの遺志を忘れないで、そしてピアノ弾きが無事に還るのを待っている歌手がここにいることも……」

 ステファンはしばらくそのペンダントを見つめていたが、手にとって押し頂いた。
 イレーヌの体温がペンダントを通じてステファンに伝わる……。

「いいこと? それはあなたにあげるんじゃないの、預けるのよ……だから……だから、必ず返しに戻って来て頂戴、お願いだから……」

 ステファンが黙って十字架を押し頂くと、イレーヌの頬が僅かに緩んだ。
「しばしのお別れに、あの歌を、さっき弾きかけたあの歌を弾いて……」
 その思いはステファンも同じ……。
 ステファンは静かにピアノの前に座った。
 そして静かにピアノが流れると、イレーヌはピアノの横に立ち、あの歌を歌い始める。
 森へ向かう男の歌を……恋人に『待っていて欲しい』と伝えつつも、永遠の別れになるやもしれないと言う覚悟を秘めた歌を……。

 最後のピアノの余韻が消え、店を静寂が包むと、ステファンは静かにピアノの蓋を閉めて立ち上がった、そして、扉の前で立ち止まると、振り返らずに言った。
「おやすみ……」
 さよならを言うつもりはなかった……還ると約束したのだから。
 いつもと違う言葉をイレーヌにかけるつもりもなかった。
 想いを口にしてしまったら森へ行く決心が揺らいでしまうかもしれないから……。

「おやすみ……」
 イレーヌもステファンを見ずに言った。
 戦いを決意した男に涙は見せられないから……。
 そして、さよならは決して口に出来ないし、口にするつもりもなかった。
 アダムにその言葉を掛けてしまった事を今でも悔やんでいるから……。
 そしてその後悔を繰り返したくないと願っているから……。


(終)


作品名:銀の十字架(クロス) 作家名:ST