その日までは
母として 夫として
万里子は幼稚園に鈴音を迎えに行き、小さな手を握りながら帰り道を歩いていた。幸治から恵子が会社まで訪ねてきたと聞いた時からこうなるだろうとは思っていた。幼稚園の迎えの時間になっても恵子は帰って来なかった。
このかわいい小さな手を離してまで、和也は恵子と別れたいというのか? この子は、そして花音は、父親を失くしてしまうというのか? 恵子はどうして自分の家庭を守れなかったのだろうか? 自分の身に、今まさに起こっている事態を理解できない幼子の笑顔が、万里子の胸を締めつけた。
それから、万里子は幸治の突然の申し出を思い出した。本来なら青天の霹靂で、頭の中を支配してしまうほどの夫からの告白だが、今は恵子夫婦の離婚問題が持ち上がっている最中、もう感覚がマヒしているのだろう、何を聞いてもさほど驚くこともなかった。
この歳で脱サラ、それも店をやる……そんなことが本当にできるだろうか?
恵子は夜になっても戻らず、子どもたちに、
「ママは?」
と何度も尋ねられ、その度に万里子は、
「お友だちのところに御用があって行っているのよ」
と答えた。そして子どもたちを寝かしつけ、大人三人途方に暮れていると、電話が鳴った。不吉な予感が走り、三人は思わず顔を見合わせた。
幸治が立ち上がり電話を取った。ちょっと待ってください、そう言って万里子に受話器を渡した。
恐る恐る受け取ったその電話の相手は恵子の友人だった。恵子からは知らせないでくれと言われたけれど、様子がおかしいので家族が心配しているかもしれないと思い、こっそり連絡をくれたのだった。万里子は、詫びと礼を言って電話を切った。
何事もないとわかってホッとした万里子だったが、そうとわかると今度は腹立たしくなってきた。これだけみんなに心配や迷惑をかけるなんていい歳をして情けない……そう思ったのは幸治や和也も同じだった。
翌朝、恵子がいなくても、真田家はいつものように動いていた。
花音は学校に、鈴音は幼稚園に、幸治は会社にと向かい、ただひとり、和也だけは仕事を休んだ。そして鈴音を幼稚園に送ってから、恵子を迎えに恵子の友人の家に向かった。子どもたちのために何日も家を空けられては困るし、今日にでも話し合って、家を出るつもりでいた。
万里子は、家事をしながら、娘夫婦の帰りを待った。
やがて、帰宅したふたりは、無言で二階の自室へと上がっていった。恵子の表情は、今までに見たこともないほど沈んでいた。おそらく昨夜は一睡もしていないのだろう。事の重大さに気づいたのだ、これで何とか丸く収まってくれればいいのだが……万里子は祈るような気持ちで娘を見送った。後ろに続く和也は軽く頭を下げて万里子の前を通り過ぎた。
長い時間が流れているように感じた。いったいどんな話し合いになっているのだろう? そう思っていると、花音が学校から帰ってきた。
「ただいま!」
元気よく部屋に入って来るなり、
「ばあば、ノンちゃんちに行って来る。ママに言っといて!」
そう言ってリビングにランドセルを置いて出て行った。万里子は助かったと思った。花音が帰ってきたら、二階に行かせないように引き留めなくてはならないと思っていたからだ。と、その時、二階から恵子が降りてきた。その表情からは深い疲れと落胆の色が読み取れた。
「鈴音を迎えに行って来るわ」
いつになく、元気のない声だった。
「そう。ああ、今、花音が帰ってきてノンちゃんちに行ったわ。ママに言っておいてって」
「そう……」
しばらくすると、和也が旅行カバンを下げて降りてきた。唖然とする万里子の前で和也は立ち止まり、静かに話し始めた。
「お義母さん、すみません、今日から会社の近くのウィークリーマンションに泊まります」
「和也さん、よく話し合ったのよね? それでもやっぱり……」
「すみません……」
「別に謝ることではないけど、何も今日出て行かなくても……そんなに急がなくてもいいんじゃない?」
「もう前から決めていたことですから」
「そう……それじゃ、私たちも前から決めていたことをやらせてもらうようになると思うわ」
「え?」
「まあ、座って聞いてちょうだい」
そう言われて、和也はカバンを置くと前の椅子に腰かけた。
「実は、聞いたのは昨日のことなんだけど、主人がね、早期退職をしてコーヒー店をやりたいんですって。ずいぶん前から下準備をしていたらしいのよ」
話がどんな方向に進むのか、不安を持って和也は話の続きを待った。
「そこへ、あなたたちの離婚話でしょう? 主人は家のことは恵子に任せて、私に店を手伝ってほしいと考えていたものだから、すっかり当てが外れたみたいで。
でもね、私、主人の希望を叶えてあげようと思うの。今まで、家族のためにずっと働いてきてくれたんですもの。還暦を迎えることだし、これからは好きなことをしてほしいと思って。そのために、私でできることは応援していくつもり。
あなたたちのことは本当に残念で、花音や鈴音のためにもどうにかやり直してほしいと思っているのよ。あなたの言い分はよくわかるけど、今回のことで、恵子は相当こたえていると思うから、きっと変わると思うわ。結婚生活って長いからいろいろなことがあると思うのよ。どうかしら、どうしてもだめ?」
「すみません……」
「そうね、この話はもう決まったことなのね……
それなら、恵子はしっかりとしたシングルマザーとして立派に子どもたちを育てていくしかないわね。
私の方も、店という初めてのことを始めるから、自分たちのことで精いっぱいかもしれないけれど、恵子たちが本当に困った時はもちろん、私たちがついているわ。
あ、それでね、主人が、かねてから目ぼしい物件を二、三見つけていたみたいなの。その中に住まい兼用の店があるとかで、私たちはそこに移ろうかと考えているの。住まい兼用の方が何かと楽だし、夫婦ふたりにはちょうどいい間取りらしいから。そうなるとこの家を手放すことになると思うわ」
「え! それじゃ、恵子たちは?」
「それは恵子が考えるでしょう、もういい大人なんですから。それに、今後のことは子どもたちの父親として和也さんも相談に乗ってくれるでしょう?」
「ええ、もちろん、それは」
「冷たい母親だと思う? でもね、今までの方が間違っていたと思うのよね、私。できることは何でもしてあげようとしたことが、返ってあなたたち夫婦をダメにしてしまったようにも思えてね……それに、私たちだっていつまでも元気なわけではないんですもの。親なんていずれはいなくなるのだから」
ウィークリーマンションの部屋でベッドに腰を下ろし、和也は考え込んだ。
今日の恵子はとても哀れだった。友人宅から戻ってきた恵子は、いつもの恵子ではなかった。そして下を向いたまま、自分の思いをポツリポツリと話し始めた。