その日までは
姉夫婦 その後
中谷恵子は、鈴音を幼稚園へ送ったその足で、駅へと向かっていた。
その日は、以前勤めていた頃の同僚、新田麻子に会う約束だった。三十分ほど電車に揺られ目的の駅に着いた。
それから待ち合わせ時間にはまだ早いので、恵子は駅前のデパートに立ち寄って買い物をした。子どもたちの手が離れ、買い物を楽しむという時間はできたが、経済的余裕がなく、デパートで買い物をするなど本当に久しぶりだった。やっぱり働きに出たい、その気持ちはさらに強くなった。
デパートの紙袋を二つ下げて、恵子は待ち合わせの店に入った。店内を見渡すと、奥の席に麻子がいた。
「ごめん、待たせちゃった?」
「ううん、私も今来たところ、まだ注文もしていないのよ。それにしても、早々とお買いものとはね」
恵子が荷物を隣の席に置くのを見て、麻子が言った。
「幼稚園に子どもを預けてその足で来たものだから、時間が浮いちゃったのよ。それに、こっちの方に出てくることは滅多にないしね」
麻子は、恵子が出産で退職してからも働き続けていた。結婚はしているが子どもはいない。だからだろうか、若々しく以前とまるで変わっていなかった。
自分は麻子の目にはどう映っているだろう? と恵子はふと、気になった。
「ねえ、麻子さん、仕事に空きがあるってホント?」
世間話もそこそこに恵子は本題に入った。
「ええ、ここへ来て立て続けに三人も辞めてしまって、困っているのよ。そんな時に、恵子さんから働き場所を探しているという連絡をもらって驚いたわ。すごいタイミングなんですもの。
派遣会社に頼むという話が出ているけど、三年前までいた恵子さんの方が、慣れているから私たちも助かるし、会社の方だってその方がいいんじゃないかと思って、今日は有休をとって恵子さんに会いに来たの。そんな理由なら溜まっていた有休も消化しやすいしね。
もちろん、恵子さんの意向をちゃんと確認していないから、まだ上司には話していないけど」
「麻子さん、お願い、私、働きたいの!」
「おうちの方は大丈夫なの? ご主人やお母さんの協力は得られるの?」
「まだ話していないのよ、弟の結婚式があってバタバタしていたものだから。でもようやく落ち着いたから、早速今日にでも話してみるわ」
恵子が勤めいた会社はもともと残業が少ない。通勤時間が一時間弱というのが引っかかるが、慣れている職場に復帰できるというのはいろいろな意味で魅力的だ。それに、大学を出てからずっといた職場となれば、和也や母にいいアピールになるだろう。
「そう、それじゃ、連絡をもらえればこちらも話してみるわね。でも、上司がなんて言うか分らないからあまり期待しないでね。私としてはぜひ、あなたに戻って来てもらいたいと思っているけど」
* * * * * * * *
今夜も和也は接待と称して、道子のアパートにいた。ひとり息子の隼人は、すっかり和也に懐き、三人で囲む食卓をとても楽しみにしている。もはや、和也にとって家庭はここだった。あっちは妻の実家であり、本来の自分の居場所ではない。
潤也の結婚式も終わり、もういつでも行動に出られる。そうは思うが、いざとなると簡単に言い出せることではなかった。
どんな言い訳をもってしても、この状況は異常であり、このままでいいわけがない。かと言って、あの家でこれからの長い人生を送る気にはもうなれない。
まずは、身辺をきちんと整理しなくては。
道子たちとはそれらが片付くまで会わないことにした。これまでの自分の家族への責任を全うする道筋をつけることに専念し、すべてはそれが終わってからだ。そして、準備が整ったら、あらためて道子親子を迎えにこよう。
そのことについては、すでに道子には話してあった。道子も信じて待つと言ってくれている。そして、今日帰り際に、隼人に言った。
「おじさんは遠くへ出張してしばらく来られなくなるけど、お母さんの言うことをよく聞いて、待っていてくれるよね?」
「うん」
「よし、いい子だ」
* * * * * * * *
次の日の夜、いつものにぎやかな食事も終わり、恵子は子どもたちを寝かしつけに子ども部屋に向かった。
恵子が戻ってきたら、今夜こそあの話をしようと、和也は緊張気味にその時を待った。そして、とうとう恵子が部屋に入ってきた。
「ねえ、あなた、話があるんだけど」
いきなり恵子にそう言われ、和也は出鼻をくじかれた形で恵子の話を聞くことになった。
「私、昨日、前の会社で一緒だった新田さんに会ってきたの。それでね……」
恵子の話は延々と続いた。だが、ひと言でいえば、以前の会社でフルタイムで働きたいということだった。それを回りくどい説明をつけるものだから、長くなった上に、相談ではなく決定事項として和也に報告しているのがわかった。
「お義母さんは、承知しているのかい?」
和也は痛い所をついたつもりだった。
「ええ、昨日早速話したわ」
「それで?」
「そう、って言っただけよ。でも、それっていいってことでしょう?」
いつもながらの、自分中心でしか物事を考えない恵子に対して、和也は、ますます離婚の意志が固くなるのを感じた。