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小説を書く―かけがえのない時間

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 一つの作品を書き上げた瞬間の爽快感は、格別のものだ。それは何ものにも代え難く、この瞬間があるからこそ、そこにたどり着きたいがために幾多の試練をも越えて完結まで突っ走ることができるのかもしれない。
 それは恐らく、小説を書くことだけではなく、陶芸、絵画、刺繍、何でも同じことだろう。
 昨夜、半年かけて書き継いできた作品が漸く完成した。
 合間には腰を痛めたり、色々なことがあった。漸く完成した作品を改めて眺め、何ともいえない気持ちになった。
 ささやかな成果であり、たいした作品ではないかもしれない。しかし、私にとっては何ものにも代え難い作品だ。
 つい最近、ある人からこんなことを言われた。
―あなたは本当に真面目に生きてきた人ですね。何も悪いことはしたことがないでしょう。もう少し悪いこともしていたら、もっと面白い顔になるのにね。
 つまりは面白みのない人間だと言われたのだろうと思う。
 初対面であるのに考え方によっては随分と失礼な人だ。一瞬、ムッとしたが、大人だから、その場で言い返すようなことはしなかった。
 しかし、その時、思った。
 たとえ面白みがなかろうが、私はこれまで真面目に生きてきた。確かに真面目すぎるくらい真面目な人間だ。それのどこが悪いのですか?
 そう言いたい。
 真面目という意味も様々だろう。私はいつでも何事にも真摯に向き合い、誠実であろうとしてきた。その自分の生き方を誇りに思っても、恥じたことは一度もない。
 だから、その人の言葉にもいささかも揺らぎはしなかった。
 逆に、この人は人間を知り尽くしたようなことを言っているが、物事のある一面しか見ることのできない人だなと思った。
 実は、その人はカメラマンだった。
 たくさんの人種、あらゆる職種の人を見てきているから、確かに人間の内面を見る目はあるのだろうが、本当に優れたカメラマンなら、「真面目な顔」をして真面目に生きてきた人を被写体にした時は、その「真面目さ」を引き出して良い顔になるように撮ることができるはすだ。
 それが「真面目に生きてきたから、つまらない写真」しか撮れないというなら、はっきり言えば、そのカメラマンの腕が足りないのだと思う。
 どんな被写体であろうと、その被写体の良い面をできるだけ引き出して切り取るのがずれたカメラマンではないか。
 それは外見の美醜の問題ではない。
 逆に、「色々と人生の冒険を楽しんで生きてきた」人に向き合えば、その人生経験を活かした表情を引き出して写真を撮れば良い。
 良い表情が撮れないのを被写体のせいにするのは、正直、自分の技術力のなさを他人のせいにしているとしか思えない。
 話が逸れてしまった。
 これからも私は真摯に馬鹿正直に生きてゆくだろう。
 そして一つ一つの作品にも真摯に向き合って、一作ずつ大切に書いてゆきたい。
 一つの作品が完結した今、自分なりに一つの仕事をやり遂げた満足感を満喫している。反省すべき点は多々あるけれど、とりあえず全力は尽くせたので、これで良いと思っている。
 次はどんなヒロインに会えるか、今から楽しみだ。



「読書とレビュー投稿で文章を磨く 」

☆「読書とレビュー投稿で文章を磨く 」
 
 私はかなり前にはアマゾンで買った本については、アマゾンのサイト内でレビュー投稿していた時期があった。だが、ある時、ふと疑問に思った。
 例えばだが、電気製品などは購入者の使用感などは次にその同じ商品を買おうとする人の参考にはなるだろう。しかし、小説などの場合、果たしてレビューが本当の意味で役に立つのかどうか。
 小説のレビューというのは、いわば感想文のようなものである。同じ小説を読んでも、感想は読者によって千差万別に違いない。また、読み手の好みで、その小説に対する評価も自ずと違ってくるものだ。むしろ、それが当たり前である。読者が30人いれば、30通りの感想があるのが自然ではないか。
 また、感想といっても良いレビューに「参考になったかどうか」という更なる評価ボタンがあるということについても大いに疑問だった。感想はその人その人によって違うものだから、それに優劣をつけることもおかしい。
 それらが私がアマゾンの小説に限ってはレビュー投稿はしなくなった理由だ。
 代わりに今は、読書家サイトにせっせとレビュー投稿している。ここは自分の読んだ本を登録して簡単な感想をつけて残すことができるので、読書記録として管理できて非常に便利である。
 いつ、どんな本を読み、どんな感想を持ったのか。後から見返すこともできる。
 職業作家の作品を読み、レビューを書くことは、とても有益な文筆修行になると思う。やはり自分と同じアマチュア書き手の作品については、思ったとおりは書けない(相手に失礼があってはならないから)。また、仲間の作品にレビューを書くときは、やはり「評価」ではなく「良いところを褒めて、よりたくさんの人に紹介したい」という思いがあるからだ。
 職業作家の作品は客観的に評価を述べても問題はないし、思ったとおりのことが書ける。自分が興味を持って読んだ本を感想をつけて残す―それがつまりはレビュー管理だと私は考えているが、これらの作業を通じて少しでも勉強して、良いところを吸収し自分も文章力などを磨いてゆきたいと思っている。 


「こだわりを棄てたら、見えてきたもの。手に入れられたもの」

 拘りというのは恐ろしい。つくづく、そう思う。もちろん、すべてにおいて拘りを持つことが悪いわけではない。けれども、あまりに拘りすぎ、固執してしまうと、真っすぐに物事を見つめられなくなってしまう。
 そのことを私は今回、しみじみと感じた。
 一年と数ヶ月の活動休止をして復帰したケータイ小説サイトで、つい最近、二作目を公開した。
 初回のときもお話ししたかもしれないが、更新が楽しい。ぼつぼつと日々、増えてゆく読者数を見る時、ワクワクする。
 もちろん、たいした数ではない。最初の作品は現代物のラブロマンスだったせいか、読者数も最初こそ緩やかだったものの、途中からは激増するという嬉しい結果になった。
 今回は私の大好きな韓流物の時代小説だから、そこまで増えるということはないだろうと最初から期待していない。
 にも拘わらず、更新が待ち遠しいくらい楽しい。
 以前、自分は何を悩んでいたのかと不思議に思うくらい、楽しんでいる。思えば、活動休止の前、私は煮詰まっていた。更新することが苦痛になっていた。増減する読者数を見ては一喜一憂し、自分にない才能を持つ人を羨みさえしていた。
 ある時、愕然としたのである。
―自分は一体、何をしているのだろうか?
 初めて小説サイトに登録して自分の作品が不特定多数の人に読んで貰えた時、どれだけ嬉しかったか。
 自分が文芸コンテストに応募してきたのは、ひとえに誰かに読んで貰いたいからで、別に賞を取らなくても読んで貰えるなら、これで夢は叶ったとすら思ったのだ。
 それが、いつしか読者数や人気にばかり気が向くようになってしまい、初心を忘れていた。気が付いたときは、数字にばかり拘る嫌な人間になっていた。