夢の中
「俺が思うに、お前の夢は、心の欲求不満を表してるんじゃないかな。」
「欲求不満?」
「うん。岸神はさ、いつでも正しくあろうとして、自分の正義をどんな時でも貫いてる。これって本当にすごいことだと思う。でも、その正義があまりにも強すぎて、ノイローゼになったりしてない?エスが暴走しすぎるのもよくないけど、押さえつけられすぎるのもよくないんだ。要は何事もバランスが大事なんだよ。俺は、いつかお前の抑えつけられていた欲望が爆発しないかと心配してたんだ。だからさっき夢の話を聞いた時、心配になったわけよ。」
つまり、あの夢で見た「何か」ってのが、俺の心の中の欲望だというのだろうか。岸神は田所の言わんとすることは理解できた。しかし、理解したところで、自分の正義を曲げる気はなかった。
「俺はずっと親父から正しくあれって言われ続けてきた。今でもその心は変わらないし、これからも変わらない。医者をやってるのも、人を救いたいって思ってるからだよ。心配してくれたのは嬉しいけど、俺の場合は大丈夫だよ。」
岸神は優しい口調であった。しかし、その声色からは、岸神のゆるぎない信念がにじみ出ていた。
「お前は全くすごいやつだよ。そういう言うところが心配なんだけどね。」
田所は目を細めながら言った。
その後、二人はとりとめのない話をして店を出た。いや、出ようとした時であった。店の奥の席に、岸神の知った顔があった。警察の柿本であった。柿本は岸神と目が合うと、軽く会釈をしてトイレの方へ向かっていった。一体何をしていたのだろうか、岸神の心の中で何かがざわついた。外に出て夜空を見上げると、月が半分雲に隠れていた。
その日の夜だった。岸神はまた夢を見た。夢の中で、岸神は一匹の狼であった。彼はとても飢えていた。彼はただ飢えを満たすため、荒寥とした夜の草原を歩いていた。月のない夜であった。まるで闇に吸い込まれたかのように、月はその存在を消し去られていた。岸神はどこまでも孤独であった。漆黒の闇に飲み込まれてしまいそうであった。そんなとき、岸神の目の前に、一匹の猪が見えた。それは岸神が探し求めていたものであった。岸神その獲物を捕らえようと身をかがめた。その時であった。岸神はまた「何か」の視線を感じた。振り返って見ても、その「何か」は見えない。しかし、闇の中に確かに存在している。岸神の第六感は迫りくる脅威を、確かに捉えていた。岸神は、恐怖で体を動かすことができなかった。そうして、しばらくの間、岸神は貼り付けになっていた。貼り付けになっている間、父の言葉を思い出していた。「己の正義を貫け」。しかし、この言葉は、とても薄っぺらいものに感じた。どれほどの時間が経っただろうか。いつの間にか、「何か」はいなくなっていた。岸神は自由になっていた。しかし、猪の姿はもうなかった。岸神は、なぜかわからないが良かったと思った。空を見上げると、雲の間に月が顔を覗かせていた。
朝目を覚ますと、岸神は何者かが自分の部屋に入ったことに気づいた。大事なものをしまった引き出しがあるのだが、その引き出しが半開きになっていて、中のものが床に散らばっていたのだ。岸神は慌てて財布や金目の物を確認した。しかし、すべて無事であった。お金が狙いでないとしたら、一体誰が何のために部屋に入ったのであろうか。岸神は不安というより、不思議でならなかった。そもそも、どうやって入ったのだろうか。岸神は、10階建てマンションの最上階に住んでいる。しかし、このマンションのセキュリテイは万全で、部外者が入るのは難しい。だとすると犯人はマンションの住人になるが、先ほど確認したように、部屋の鍵はきちんと締まっていた。ならば寝ぼけて開けたのだろうか。部屋をうろうろしながら考えていると、ゴミ箱に破れた紙が入っていることに気が付いた。それは父が書いた紙であった。
「己の正義を貫け」
その文字は、破れて読めなくなっていた。引き出しを開けた誰かは、おそらくこの紙を探していたのであろう。そして、紙を見つけて破いたに違いない。しかし、だとするとますますわからなくなる。犯人は、この紙を破るためだけに岸神の家に入ったというのだろうか。なぜそんな無意味なことをする必要があったのだろうか。そもそも、この紙に書かれた文字の存在を知るのは、田所くらいだ。考えれば考えるほど謎は深まるばかりであった。ふと時計を見ると、7時半を回っていた。今日は9時から診察があった。とりあえず考えるのは帰ってからにしよう。岸神は被害が紙一枚だったことにひとまず安心して、患者を救うべく病院へと向かった。
その日最初の診察相手は黒岩だった。黒岩は前と同じく、黒のパーカーに紺のジーンズという格好であった。パーカーにジーンズというのは、30という年齢を考えれば若すぎるような気もした。しかし、彼には黒がとても似合っていた。
「朝は早くにありがとうございます。今日来ていただいたのは、他でもなく手術をするかどうか決めてもらうためです。急かすようで申し訳ないのですが、現時点での考えを聞かせていただきたいと思っています。」
岸神は丁寧にしゃべり始めた。
「結論から申し上げますと、手術はしないです。」
黒岩は静かにいい放った。彼の声は低かったが、よく通る声をしていた。
「手術はしないのですね?ということは、大変言いにくいのですが、死を受け入れると?」
「死ぬことなんて全然怖くない。」
黒岩は毅然として言い放った。
「人なんて早かれ遅かれどうせ死ぬ。後はタイミングの問題だ。私は死ぬことなんて全然怖くはないんですよ。」
そういった黒岩の表情に、嘘はないようであった。岸神はこれまで何人か、死に際の人間にあったことがある。見かけはどんなに屈強そうな男でも、死を宣告されたときにそれを受け入れられるものなどいなかった。しかし、黒岩の発言には、迷いや見栄はないように思われた。彼は強がりではなく本心で言っている―その事実は、岸神には受け入れられないものであった。
「死を恐れない人間に、私は初めて会いました。私は何より、あなたの意志を尊重します。手術をしない以上、私ができることは何もないのかもしれない。しかし、もし苦しくなったりしたら、いつでも私を訪ねてください。気休めかもしれませんが、少しでも苦しみを和らげる方法ならありますので。」
「ありがとうございます。その時はお願いします。」
そういうと、黒岩は席を立った。岸神も、黒岩を見送ろうと、席を立った。
「ところで、岸神さん、1週間以内に、田中浩介という人に会いませんでしたか?」
黒岩の突然の質問に、岸神はたじろいた。なぜ、この男は自分と田中の関係を気にするのだろうか。岸神には全く分からなかった。
「いえ、会ってませんけど、、、。黒岩さん、田中さんと知り合いなんですか?」
「大学からの親友だったんです。それがこんなことになるなんて。私が岸神先生を訪ねてきたのも、田中が勧めてくれたからなんです。先生の手術の腕はぴか一だと。田中は先生に本当に感謝していましたよ。」
「そうだったんですか。田中さんのことは本当に残念に思っています。」
「最後死ぬ前に先生に会っていなかったかと。一応聞いただけです。気にしないでください。」